細川藤孝 5人の主君を変えた戦国生き残り戦略!細川藤孝の一生!

細川藤孝は天文3年(1534年)4月22日に京都東山

にて誕生した。

幼少の頃から短歌、連歌などを叩きこまれ、武芸にも力を

入れ、剣術は塚原卜伝に教えをこうて武芸一般はかなりの

腕であった。

特に連歌については大名とコミュニケーションをとるための

道具であった。

そのため朝廷と大名の橋渡しをする重要な人物であった。

その細川藤孝は一生涯で4人の主君を変えてきた戦国一の

効き目を持っていた武将である。

Contents

スポンサードリンク

将軍足利義昭との決裂

永禄8年(1565年)将軍足利義輝が三好三人衆の

謀反により殺害されてしまった。

義輝の実の兄弟である義昭は家督相続者以外の子として、

慣例により仏門に入り覚慶と名乗っていた。

しかし三好三人衆によって興福寺に幽閉・監視されてしまった。

しかし、義輝の側近であった一色藤長、和田惟政、仁木義政、

畠山尚誠、米田求政、三淵藤英、細川藤孝および

大覚寺門跡・義俊らによって救出されました。

それからは放浪の旅になり、最後に朝倉義景の元に移り

上洛への助力を要請した。

しかし義景は動こうとせず、無駄に時間を過ごすことになり、

時だけが過ぎていった。

他の大名も自国の都合でなかなか動けず、義昭と側近たちは

困り果てていた。

三好三人衆も足利義栄を擁立しようと躍起になり、

足利義栄をなんとか室町幕府第14代将軍に仕立て上げた。

しかし足利義栄は体調が悪く、京都にくることもなく

病死となった。

この頃、三渕と細川は朝倉家の家臣であった明智光秀と

合い、事の次第を告げて協力を要請していた。

明智光秀は尾張の織田信長に足利義昭を引き合わせ、

上洛の話を織田信長に申し入れ、話をまとめた。

永禄11年(1568年)9月、北近江の浅井長政を

従え京都に入った。

幕府内の人事も終わり、公務に励み室町幕府は再興

された。

義昭も活気を取り戻し、政務に励んでいた。

しかし信長はいろいろ難題を突きつけ、足利義昭とは

考えの相違が現れてきた。

スポンサードリンク

新たなる主君

幕府再興を念願とする義昭と、武力による天下統一を

狙っていた信長の思惑は違っていたために、両者の関係は

徐々に悪化していくこととなる。

そして室町幕府はわずか5年で瓦解していく。

元亀3年(1972年)足利義昭は信長包囲網を作り、

各武将に指示を出していた。

そのそうそうたるメンバーは松永久秀・三好義継・

武田信玄・石山本願寺(顕如)・浅井長政・朝倉義景などの

各武将でした。

元亀3年(1572年)10月に武田信玄が甲府を発進して

次々と城を落としていき、12月19日には三河の二俣城を

陥落し、12月22日には三方ヶ原で徳川家康に勝利して、

三河まで侵攻してきたが突如撤退を開始した。

これは武田信玄に異変が起きたからである。

これを待っていた織田信長は京都に進軍していった。

京に入り陣を張った。

その時、幕臣であった細川藤孝や荒木村重が足利義昭に

見切りをつけて織田信長についた。

細川藤孝の始めの主君は13代将軍足利義輝だった。

しかし三好三兄弟のため謀反を起こされ殺害された。

足利義昭を将軍にする事で自分の仕事ができると思い、

使えてきたが、あまりにも考え方が違い、これでは

世はおさまらんと踏んで、織田信長を主君とした。

この時「世渡り上手」とか「信用がおけない」などの

陰口が聞こえていた。

細川藤孝はたびたび織田信長に京都の情勢を知らしていた。

足利義昭と織田信長の争いも頂点に達してきた。

足利義昭は甲斐の武田信玄が動いたのに気をよくし、

あくまでも信長に抵抗していた。

元亀4年(1573年)正月、信長は子を人質として

義昭に和睦を申し入れたが、足利義昭は義昭は無視した。

信長は京に入り知恩院に陣を張った。

織田信長は足利義昭に再度和睦を申し入れてきたが拒否された

事に怒りを覚え、義昭の支持者の住居棟を焼き払い、

ついに烏丸中御門第を包囲して義昭に圧力をかけた。

そして信長はふたたび朝廷と工作した末、4月5日に

勅命による講和が成立した。

足利義昭は講和を破棄し、7月3日に足利義昭は

南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り、

再び挙兵したが、7万の織田軍に対抗したがすぐに降伏した。

これで足利義昭を京都から追放した。

細川藤孝は前々から義昭の動向を織田信長に知らせていた

から織田信長からもお礼の書状が届いている。

それからは織田軍として各戦場で功績を上げていた。

天正6年(1578年)には信長の薦めで嫡男・細川忠興と

明智光秀の娘と婚儀がなされ明智光秀とは姻戚関係になり、

明智光秀の与力として戦場を駆け巡っていた。

それらの功績もあり織田信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)

の領有を認められて宮津城を居城とした。

スポンサードリンク

本能寺の変

織田信長は中国地方の高松城を水攻めで戦っている

羽柴秀吉からの援軍の要請があり、明智光秀に

羽柴秀吉の援軍に行くよう命令した。

光秀は亀山城にかえり戦支度をして、総勢13000人

手勢を引き連れて亀山城を出発し、方向を本能寺に

向けた。

天正10年(1582年)6月2日早朝に京都本願寺に

滞在中だった織田信長を襲撃し、自害に追いやった。

信長の嫡男の織田家当主信忠は宿泊していた妙覚寺から

二条御新造に移って抗戦したが、多勢に無勢で良く交戦したが

最後は自害に追いやられた。

これにより織田政権は崩壊していった。

明智光秀は謀反を起こす前から姻戚関係にある「細川藤孝に

打診をしていた」かはわからない。

しかし織田信長を討ち取った後、明智光秀は畿内の武将に味方

になるよう書状を送っていた。

盟友の細川藤孝は密使から連絡を受け、すぐ剃髪をし雅号を

幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし田辺城に隠居、忠興に

家督を譲った。

嫡男・忠興も中立を取った。

そうなると明智光秀と関係があった筒井順慶からも

良い返事はなかった。

また奥丹後の一色義定は光秀の味方を決めたが南丹後の

細川幽斎が動かないため兵を出せなかった。

そして細川幽斎が動かなかったため他の武将も

明智光秀に味方する武将はいなかった。

これは明智光秀の最大の誤算であった。

細川幽斎は山崎の戦いのともらい合戦に参戦はしなかったが、

「信長追善懐旧百韻興行」を主催した。

この事で亡き信長に忠誠を尽くしたことを天下に知らしめた。

羽柴秀吉とは天正8年、9年頃から細川藤孝と共同の

軍事演習をしながら、急速に細川幽斎に近づいていた。

そのため「細川幽斎が明智光秀につくことはない」と確信していた。

合戦終了後、細川幽斎に丹波から動かなかった事を評価している。

そして羽柴秀吉と細川幽斎が盟約を結んだ。

この盟約を結んだということは将来を保証された証明になる。

この時、細川幽斎は来たるべき豊臣秀吉の時代を見通して

いたかもしれない。

それからは羽柴秀吉に重宝され豊臣政権に貢献した。

細川忠興(三斎)も茶道に造詣が深く、利休の高弟の一人となる。

一方で徳川家康とも親交があり、慶長3年(1598年)に

秀吉が死去すると細川幽斎は家康に接近した。

関ヶ原の戦い500人の兵で籠城作戦

慶長5年(1600年)6月、細川忠興は徳川家康の

会津征伐に丹後から細川家の軍勢を引きつれて参加したため、

幽斎は三男の細川幸隆と共に500人に満たない手勢で

丹後田辺城を守る事になった。

翌月には石田三成たちは徳川家康討伐のため兵をあげ、

大坂にあった忠興の夫人ガラシャは石田方に包囲され、

忠興の夫人ガラシャは屋敷に火を放って自害した。

細川幽斎は500人の兵で石田三成方の小野木重勝、前田茂勝らが

率いる1万5000人の大軍に包囲されたが、幽斎が指揮する

籠城勢の抵抗は激しく、攻囲軍の中には幽斎の歌道の弟子も多く

戦闘意欲に乏しかったこともあり、長期戦となった(田辺城の戦い)。

しかし細川幽斎の弟子たちが朝廷にも武将たちにも多くおり、

攻撃もままならず、鉄砲には球を込めずに空砲だったそうだ。

その弟子の一人だった八条宮智仁親王は細川幽斎に講話を

申し出たが、細川幽斎は籠城戦を続けた。

そして使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、

『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。

遂に天皇は細川幽斎を惜しみ、関ヶ原の戦いの2日前の

9月13日、両軍に勅命を発して開城させて、八条宮に

古今伝授を受けさせた。

ここで石田三成がなぜ15000もの兵を城兵が500人の

田辺城に向けたのかは謎であるが、この15000の兵は

関ヶ原に間に合わなかった。

そのために西軍は負けた可能性もある。

この様に細川幽斎は足利義輝、足利義昭、織田信長、

豊臣秀吉、徳川家康と5人の主君とめぐり合い、その時の

ひらめきで主君を変えて行った。

「乗り換え上手」、「世渡り上手」と言われながら

細川家の存続に努めた。

嫡男の忠興は関ヶ原の功績を褒められ、豊前国小倉藩

39万9000石の領地を与えられた。

細川幽斎は京都で悠々自適の生活を送り

慶長15年(1610年)8月20日自宅で世を去った。

享年77斎

まとめ

幼少の頃から剣術、和歌、茶道、連歌、蹴鞠などの文芸を

習得し、当代随一の教養人でもあった。

剣術はあの塚原卜伝に習い、弓術、など武術もかなりの

腕前であった。

この細川幽斎は人間の見定めがとても強かったと思う。

余談ですが細川幽斎は養子でした。

昔、長男は家を継ぎ、家を滅ぼすが、

養子は自分の代で家を潰すわけにはいかず一生懸命働いた。

この様なことがあったかもしれません。

スポンサードリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする