上杉景勝 運にも恵まれた生涯

幼少時の景勝は喜平次と呼ばれていた。

景勝は父・長尾政景の死で10歳で長尾家の家督を引き継いだ。

そして春日山城に入り叔父・上杉謙信の養子になった。

この頃、直江兼続(幼名 与六)も謙信に仕えていた。

そして二人は竹馬の友であり、兼続も謙信の下で学んでいった。

1566年(永禄9年)景勝は上杉謙信の関東出兵が初陣で、

それからは謙信の政権下で重要な役割を果たすまでになり、

謙信からいろいろ学んで大きくなった。

1575年(天正3年)名を長尾顕景を改め上杉景勝に改める。

そして上杉一門衆筆頭となる。

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上杉謙信の死去

1578年(天正6年)3月13日 謙信が死去(49歳)。

この時は突然の死で残された者同氏の相続争いが待っていた。

謙信の口から後継者の名前は発しておらず、景勝と景虎の争いが

始まった。

上杉景虎は北条氏康の七男で、人質として上杉家に送られ謙信の

養子として後継候補者に名前が挙がっていた。

後継者争いはどこまで本当だったか疑われるところもたくさんある。

謙信は景虎を軍事力の無いところで働かせていたことにより、

後継者とは考え辛い。

景勝は上杉一門衆より上に位置付けられ景勝直属部隊に上杉最大の

兵力の一部を組み込ませたのは謙信の考えで、後継者筆頭だと

部下に知らしめたのだと思います。

お互いに景勝は武田に、景虎は北条にと援軍を頼んでいたが、

武田勝頼の抑止力で北条は攻め込めず、景虎はだんだん求心力を

失い滅んでいった。

この頃、織田勢が勢いを増して織田勢と戦いになり苦戦していた。

甲斐の武田勢も信長と家康によって攻められ、滅亡をたどっていった。

1582年(天正10年)織田軍は魚津城を落とすため、上杉軍と

(魚津城の戦い)攻防戦を始めたが上杉軍は援軍を送ることができず

魚津城は落城した。

景勝も武田の後ろ盾がいなくなり、景勝は佐竹義重に送った。

書状には「自分は良い時代に生まれた。六十余州を相手に越後一国を

もって戦いを挑んで対峙し、滅亡することは、死後の思い出である」

と玉砕を覚悟で信長との決戦を覚悟した。

その時「本能寺の変」が起きたのである。

景勝はこの時とばかり謙信が築いてきた領土の安定に注力した。

織田軍が本能寺の訃報を聞いたため撤退を始めた。

上杉軍は魚津城を難なく手に入れた。

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天正壬午の乱

また1582年(天正10年)織田政権を離反した北条氏は

旧武田領に進行して北条、徳川、上杉の三つ巴の戦が始まった。

天正壬午の乱である。

これにより北条は北条は上野南部、上杉領・真田領を除く信濃と

甲斐全域、上杉は北部4郡の支配を維持した。

翌年4月には「賤ケ岳の戦い」が始まり、秀吉は景勝と同盟を

結び柴田勢の後ろを景勝が攻めることになった。

しかし柴田勢の佐々成政が景勝の前に立ちふさがり、前進が

できなかった。

秀吉にとっても「成政が参戦できなかっただけでも大いなる

戦果であった」と絶賛していた。

それからは秀吉の後ろ盾もあり、上杉を裏切った新発田重家を討ち、

ほぼ越後の統一ができた。

佐渡・出羽両国も上杉家の切り落とし勝手となり、1588年

(天正16年)には庄内に侵攻して最上軍を打ち果たし庄内三郡を

手にし、翌年には佐渡国を平定して文字通りの越後の平定である。

1595年(文禄4年)有力大名の徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・

前田利家・宇喜多秀家・小早川隆景が豊臣政権の大老となった。

1598年(慶長3年)秀吉死去。

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豊臣政権の崩壊

この事を待っていたかのように家康が動き出した。

朝鮮から日本軍を引き上げさせ、各家に訪問している。

また縁組も盛んに行い豊臣政権の法令に違反する行為を続けた。

だいぶ雲行きが悪くなってきたが利家らと誓書を交わし和睦。

しかし利家の死後は天下を取ったかのように調略を進め、

豊臣政権を崩しにかかった。

この事に危機感を感じた景勝は兼続に神指城の築城を命じた。

この事に家康は腹を立て「上洛して説明せよ」と景勝に命じたが、

兼続が「直江状」を家康に送ったため家康は会津征伐に乗り出した。

しかしこの事は家康の頭の中では予測はしていた。

そのための画策は十分に予測できている家康に石田三成が

引っかかったのかも?

家康は会津征伐に出れば三成は動き出すと読んでいた。

案の定、三成は兵をあげた。

それに伴い家康も西に向かって進撃した。

関ヶ原の戦いは始まった。

結局西軍は負け景勝は領地を召し取られ置賜・信夫・伊達の

3郡からなる出羽国米沢30万石に落とされた。

米沢藩主になってからは米沢藩の藩政確立に精を出した。

大阪冬の陣では家康に服従して、兼続と出陣した。

大坂夏の陣では京都警備を担当し、八幡山に布陣した。

同年5月に大阪城は落城し、景勝は米沢へ帰国した。

1619年(元和5年)4月 直江兼続 死去。享年60歳

1623年(元和9年)上杉景勝 米沢城で死去。享年69歳

景勝は「天命を全うした」

その後、上杉家は幕末まで続いた。

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