第一次上田合戦 勝負師真田昌幸の野望

真田昌幸は知将・謀将として戦国時代を

すり抜けてきた凄い男である。


子供は真田信之、真田信繁がいる。

この家族は関ヶ原の戦いで敵味方になり、

どちらが絶えても真田家を存続させるために昌幸が

考え指示した。

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武田信玄時代の真田昌幸


甲斐武田家への人質として甲斐国に入り武田晴信

(武田信玄)の奥近習衆に加わった。


足軽大将に任じられ、その軍役は騎馬15騎、

足軽30人と伝えられている。


昌幸が15歳のころ、第四次川中島の戦いに

初陣した可能性はあるが定かではない。


1569年(永禄12年)北条家との戦いでは

先陣の馬場信春への使番を務め、一番槍の高名

を挙げた。


その頃、信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を

見抜いていた。


1570年元亀元年、武田軍は伊豆に侵攻して

韮山城を攻撃していたが、北条氏政が援軍を

率いて三島に着陣した。


この時信玄は敵の偵察に曽根昌世と昌幸を

出していた。

両名が返ってくると武田に有利な報告をし、

信玄も疑わず、進軍した。

北条方も不利になったことを知り、戦わず

兵を撤収した。

 

この様に信玄自身が見てきたかのように、的確な

ほしい情報を持って帰る両名は信玄にとって

「我が両眼」と言わせた両名である。


昌幸の親・兄弟が武田二十四将に数えられる

程の実力であった。


昌幸は1573年(元亀4年)4月に

信玄が病死したあと、家督を継いだ武田勝頼

に仕えた。

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信玄死後の昌幸

1578年(天正6年)3月、越後の上杉謙信

が急死し、家督争いで上杉景勝が家督を継いだ。

これにより甲越同盟が成立した。


昌幸は勝頼の命で沼田城を攻撃して、沼田城を

手に入れた。


沼田城は1532年沼田顕泰によって築城され、

上杉・北条・武田にとって重要な拠点であった。

この沼田城をめぐり争いが始まった。


1582年(天正10年)3月、織田信長が

甲斐の武田勝頼を滅ぼしたことにより、甲斐・

信濃・上野は信長が手中にした。

しかし、それから3ヵ月の6月に信長は本能寺の

変で倒れた。

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天正壬午の乱

これを機に徳川家康が甲斐に、北条氏政が上野に、

上杉景勝が信濃に侵攻してきた。

この三つ巴が天正壬午の乱である。


上杉は信濃北部を抑えて、自国の混乱のため

引き上げた。

これで北条と徳川の争いになった。

昌幸は北条に服属するが、上杉とも通じていた。


その後、徳川に従っていた昌幸の実弟である

真田信尹らの説得で徳川方についた。

北条に対抗するための隠れ蓑だった。


徳川と対陣する北条氏直は徳川との和睦に応じた。

和睦の条件として沼田城の引き渡しを言ってきた。


昌幸は渡すことはできないと、徳川、北条と

敵対して、上杉景勝に臣従した。


昌幸は家康に沼田領は徳川や北条から

拝領した領ではない、自らが手に入れたもの

と家康に事実上の手切れ通告をした。


家康も激怒して約7000の兵を上田に送った。


第一次上田合戦


昌幸は家康を迎え撃つため籠城作戦に入り、

家臣だけでなく、僧侶・農民・協力者によって

2000人弱の兵を集めた。


昌幸は千曲川南岸に位置する禰津城まで出陣した。

野戦では到底かなわないから、城におびき寄せる

作戦であった。


徳川軍が神川を渡ると、信幸率いる一隊は

徳川軍と交戦はするが、すぐに退却した。

徳川軍は真田軍の追撃を開始し二の丸を

突破させた。

徳川軍は本丸まですぐに行けると思い、

大手門まで進んだ。

この時大手門が開き、中から真田本隊が徳川軍に

襲いかかってきた。


城内では農民の石落としや丸太落としがあり、

鉄砲での攻撃で徳川軍は後退し始めたが千鳥掛けに

惑わされ、思うように後退できなかった。


真田方は砥石城からも追撃隊が出て本体と合流して

徳川軍を追撃していった。


また徳川軍が神川を渡ると上流で堰き止めておいた

堰を壊し、一気に川を増水させ徳川軍をのみ込んだ。


このことで徳川軍の戦死者は1300人、真田軍は

わずか40名だったそうです。


徳川軍は丸子城を攻めるが、なかなか落ちず、

20日間対峙していた。


それからも小競り合いが続いたが、徳川家重臣の

石川数正が豊臣秀吉に寝返ったことにより、徳川軍は

3ヵ月にわたる攻防戦に終止符を打って、三河に

戻った。


1583年(天翔5年)7月には徳川の真田征伐も

あり、小競り合いは続いていた両家であるが、豊臣秀吉の

計らいにより昌幸を家康の与力大名にすることで

落ち着いた。


そして本田忠勝の娘・小松姫を信之に嫁がせた。

これにより両家の関係は密接になっていった。

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