若き浅井長政 時代の流れに飲まれた

1545年(天正14年)浅井久政の嫡男として生まれ幼名は猿夜叉丸。

浅井家は京極家の家臣であったが、浅井亮政の時にかなりの

領土があったが、浅井亮政の死後あとを継いだ浅井久政の時代に

なって領土はなくし、六角氏の臣従として国を治めていたが

嫡男・長政の元服を機に、クーデターを起こし、父を隠居させ

長政が家督を継いだ。

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浅井長政の誕生

1560年(永禄3年)8月、長政は15歳で群を率いて

六角軍と戦った。

そして見事な戦いぶりで勝利し、これには重臣たちも感激した。

また妻も六角氏に返し、六角氏から離反した。

この事で六角氏は衰退していった。

これで新しい浅井家の当主が誕生した。

若い当主にたいして織田信長が同盟を申し入れてきた。

そのころ美濃の国では若くして斎藤義龍が急死して、そのあとを

斎藤龍興が家督を継いだ。

その龍興であったが、先代、先々代に比べるとあまり賢くなかった。

また祖父の代より続く家臣の流出(森可成、坂井政尚、堀秀重、

斎藤利治、明智光秀等)、評判の悪い重臣を近くに置いたりして、

家臣の信望は得られなかった。

信長との戦いでも当主らしい行動はなく、家臣によって

助けられていた。

龍興は浅井長政に同盟を結ぼうとしたが、信長に先を越されていた。

1567年(永禄10年)長政は信長の妹の市と結婚した。

結婚後は賢政をやめ、信長の「長」を取って長政と改名した。

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足利義昭の策略

この時、越前国に足利義昭が滞在していた。

義景を上洛への助力を要請していた。

しかし朝倉義景はなかなか良い返事を出さないでいたため、

義昭は信長に鞍替えをした。

これにより信長と長政は上洛を開始した。

1570年(元亀元年)長政にとっては最大の危機が始まった。

信長が「朝倉への不戦の誓い」を破り、越前国の朝倉方の城を

攻めだしたのです。

これには長政も悩んだが、長政は義景の同盟関係を重視して

織田軍の背後ついた。

この話は織田との同盟をよく思わない重臣が隠居の久政を

担ぎだして戦ったとの話もある。

実際には長政も主力部隊もこの戦には参加した形跡がない。

このいきさつはあるが長政は義景を援護すことになり、

信長とは決裂した。この時長政は何を思ったかはさだかではない。

6月には長政は朝倉軍と織田軍を打つために姉川に向かい織田軍と

対峙した。

結局織田軍には歯が立たず長政と朝倉軍は敗退した。

今度は反信長を表明した延暦寺・一向宗と組んで浅井軍、朝倉軍が

立ち上がった。

信長は足利義昭に和睦の調停を依頼し、浅井は信長と

勅命講和することになる。

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信長包囲網

1572年(元亀3年)7月信長が北近江に進軍した。

長政は義景に応援を出し、義景は1万5000の軍勢を引き連れて

長政と合流したが、双方のにらみ合いが続いた。

9月には信長包囲網を打診していた将軍・足利義昭の要請に

応える形で武田信玄がやっと甲斐国を出発した。

武田軍は三河に進行し徳川・織田連合軍の三方ヶ原で合戦を交え

圧勝であった。

しかし12月には義景が兵を引き上げてしまった。

それに怒った信玄は義景に再度出陣せよと強く迫った。

しかし義景は無しのつぶてであった。

その後、信玄は再度進軍を再開し家康の野田城を落城させ進んだが

信玄の容態が悪く、甲斐に退却してしまった。

これで信長包囲網は崩れた。

1573年(天正元年)7月、信長は3万の軍勢を率いて

北近江に攻め入った。

長政の最後

長政は義景に援軍を頼み、2万の義景軍が駆けつけてきたが、

長政軍の中から寝返りが続出したため、義景は負け戦と

判断して長政を見放し、越前国に撤退した。

信長は「何故長政を見限った」という気持ちがあり義景を

徹底的に攻め込んだ。

そして朝倉軍を壊滅させ、義景を打ち取った。

信長はすぐに軍を浅井軍に向けた。

そして度重なる降伏を進めたが長政は自害覚悟であった。

8月27日には父の久政が自害。

翌28日には長政が小谷城内で自害。享年29歳

まとめ

長政も有能な武将であったが、時の流れを読むことができず、

滅亡の道を歩んでしまった。

長政が信長と同盟を続けていれば家康より

強い味方になったかもしれません。

どこでどのように変わるかは誰にもわかりません。

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