天下統一目前の「本能寺の変」

天正4年2月、足利義昭は中国地方を支配

していた毛利氏を頼っていた。

そこで第三次信長包囲網を考えていた。

そして、信長と長く対立している本願寺、

武田氏、中国の毛利氏、山陽の宇喜多氏、

北陸の上杉氏などが信長包囲網に参加した。

また義昭の動きは信長の傘下に入っている

武将にも影響を与えた。

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第三次信長包囲網

丹波の波多野秀治、但馬の山名祐豊らも

天正3年から天正4年のわたり、謀反を起こして

信長包囲網に加わった。

この包囲網に対して信長も動いた。

天正4年4月、塙直政、明智光秀軍が本願寺

攻撃に出陣した。

本願寺勢も鈴木孫一や雑賀衆を味方にし、

織田軍を苦しめた。


越前、加賀は柴田勝家が進行して加賀

一向一揆を攻めていた。

毛利氏、上杉氏の介入と松永久秀の謀叛


この時天正4年4月まで信長と同盟関係に

あった上杉謙信が石山本願寺と和睦を成立

させ、信長との同盟を破棄した。


これは足利義昭が幕府再興を謙信に依頼した

とも言われている。


毛利軍も本願寺への補給を村上水軍にて

行い、謙信も越後に攻め入った。


1577年(天正5年)3月に本国越後が

北条氏の侵攻を受け、謙信は本国へ

引き返した。


信長は本願寺の味方である雑賀衆の攻撃のため

紀州征伐を行った。

これで事実上雑賀衆は降伏した。


しかし8月に入ると松永久秀の謀叛が起こり

信忠率いる織田軍が謀叛を鎮圧した。


加賀侵攻をしていた柴田勝家は、謙信の侵攻

で形勢悪く敗北し、丹波方面を攻めていた

明智光秀率いる織田軍も波多野軍に追いやられ、

敗北している。

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上杉謙信の死と後目相続

1578年(天正6年)3月に謙信が病没した。

このことで甥の上杉景勝と上杉景虎による上杉氏

の後目相続が始まり、上杉軍の後退が始まった。

これにより柴田勝家に援軍を送ることなく進み、

丹波方面でも丹波黒井城の城主赤井直正も病死

したことにより織田方の優勢になり、信長に

とっていい方向に進んだ。


このため羽柴秀吉に援軍を送り、播磨に侵攻

させたが、毛利軍も宇喜多軍と共に播磨に

侵攻してきた。


信長傘下に入っていた尼子勝久は上月城の

守りに入った。


秀吉はこの時、勝久の応援に行けず、勝久に

「城を捨てて退却しろ」と命令したが、逃げずに

戦い、最後は毛利軍に敗れ、自害した。

戦国大名だった尼子氏はこれで大名に

復活することなく滅亡した。


10月に荒木村重が謀叛を起こし有岡城に

籠城した。

このことで石山本願寺包囲網の一角に穴が開き、

信長は即座に派兵し、一か月で村重組下の城を

ことごとく降伏させた。

そして有岡城の攻撃が始まった。

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第二次木津川の戦い

12月には本願寺へ補給しようとした毛利氏の

水軍と織田氏の水軍で第二次木津川口の戦いが

始まった。


1576年(天正4年)の第一次木津川口の

戦いでは多くの船が焼かれて大敗を喫した。

今回の第二次木津川口の戦いでは、燃えない

鉄鋼船を6隻作った。

この鉄鋼船は大砲・大鉄砲を配置し、敵の大将船を

引きつけて一斉に集中砲火する戦法であった。

これには毛利水軍も近づくことができず、数百隻が

退却していった。

これにより本願寺への海上からの補給路は立たれた。


毛利氏の退潮と信長包囲網の瓦解


1597年(天正7)に入ると荒木村重の有岡城

と別所長治の三木城は織田勢の包囲化にあった。

石山本願寺も補給を断たれ孤立し、波多野氏と

赤井氏も劣勢になり、5月に波多野氏の居城

八上城、8月に赤井氏の居城黒井城が落ち、

有岡城は9月に村重が逃亡し、10月に

陥落している。

また最後まで抗戦を続けていた別所長治は

宇喜多直家が毛利から織田についたことで

完全に補給路が絶たれ翌年の天正8年の1月

に自害した。


石山本願寺もついに抵抗を断念して織田家と

和睦した。


こうして信長は絶対勢力にのし上がっていった。

甲州征伐

武田勝頼は長篠合戦の敗退後は外交関係の

強化と新府城の築城などで甲斐の再建をはかった。

しかし財政が逼迫して領民から年貢の取り立てが

厳しくなり領民達も勝頼への心が離れていった。


外交関係でも北条、上杉、織田とことごとく

うまくいかず、出兵のための資金もなく

疲弊していった。


この時は織田方は西の戦いで東には出て

これなかったから助かっていた。


しかし、1582年(天正10年)2月1日、

信玄の娘を嫁にした木曽義昌は財政的な理由で

勝頼から離れ、信長に寝返った。


2月3日に信長は武田領国への侵攻をするために

大動員令を信忠に命じた。


駿河国から徳川家康、相模国から北条氏直、

飛騨国から金森長近、木曽からは織田信忠が

それぞれ武田領攻略を開始した。

連合軍の総数は10万余に上った。


武田軍は織田軍の攻撃に耐えられず、次々

と降伏していき、組織的な攻撃も出来ず敗北

していった。


そんな中、唯一最後まで戦った武将がいた。

仁科盛信である。

高遠城で籠城して戦い、織田軍の攻撃を

受け落城したが、織田軍の戦死者も多く、

被害が多かった。


そこから織田信忠は猛烈な勢いで侵攻して

武田領を制圧した。


3月11日、武田勝頼・信勝父子、桂林院殿は

自害した。

これにより、清和源氏新羅三郎義光以来の

名門・甲斐武田氏嫡流は滅亡した。


この甲州討伐によって奥州の大名たちは

信長に忠誠を誓う使者を派遣した。

本能寺の変

1582年(天正10年)5月14日、信長は

徳川家康を安土城に招き、明智光秀に接待役を

指示した。


17日になって備中高松城攻撃中の羽柴秀吉

から援軍の要請があった。

信長は自分が先頭に立って中国地方を制圧し

九州まで進むつもりでいた。


光秀は信長から援軍の先陣を任され、

その日のうちに居城坂本城に戻り出陣の

準備をした。


信長は家康たちを京・大阪・堺・奈良に

見物するように勧めた。


この時、信長は供廻りを連れずに小姓衆のみ

率いて、安土城から上洛していた。


この時、「天下統一がもうすぐ来る」

心の隅でおごりがあったのでは?

それとも光秀を信用していたのか。


それは分からないが軽率ではなかったか?


この時期、織田家の重臣に率いられた軍団は

西国・四国・北陸・関東に出払っており、

畿内に残っているのは光秀軍だけであった。

信長に次ぐナンバーツーであることは今までの

采配で自負していただろう。


しかし活動が可能であったのは光秀

ただ一人である。

動機は諸説あるが、わずかな小姓衆で京に

滞在する信長と信忠を襲う機会があるのは

光秀一人だけであった。


6月1日、光秀は1万3000人の手勢を

率いて亀山城を出陣した。

6月2日朝方、明智勢は本能寺を完全に包囲

した。


そして明智勢は御殿に鉄砲を打ち込んできた。

信長は「さては謀叛だな、誰のしわざか」

と蘭丸に尋ねると「明智の軍勢です」と聞くと

「是非に及ばず」と言って弓を

取った。


この謀叛で信長と信忠の首は上がらなかった。

そのため、まだどこかに信長が潜んでいる

という声もあり、光秀が主だった武将に

味方になるように言ったが、拒まれていた。


信長の天下統一は消え去った。

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