秀吉の最高の参謀 蜂須賀小六

蜂須賀城(はちすかじょう)は、尾張国海東郡

蜂須賀村(現在の愛知県あま市蜂須賀)にあった。


尾張国の土豪である蜂須賀氏が鎌倉時代より

この地に住んでいたとされるが、築城年は

不明です。

Contents

スポンサードリンク

蜂須賀小六の幼少時代

戦国時代には、蜂須賀正利の長男である

蜂須賀正勝(母は安井御前)がこの城で生まれ、

幼少期を暮らしていた。


しかし、織田信秀との対立により、土地を

奪われてしまい、その後は同国丹羽郡宮後村

の宮後城に移り住む。


また、正勝の長男・蜂須賀家政

(後の阿波徳島藩祖)の生誕地とする説もあるが、

正勝と母・安井御前は宮後城に移り住んで

いたため、宮後城で生まれたと考える説が

有力である。


また川並衆という木曽川の水運業をしていたと

されるがちょっと疑問視である。


よく分からないが父・正利は美濃の斎藤氏に仕えて

いたようである。

それが理由で織田信秀と敵対していたのか?

スポンサードリンク

正勝の運命

1553年(天文22年)2月25日の父の死後、

正勝は斎藤道三の近侍をしていたが道三と

斎藤義龍の争いでは道三側について活躍した。


尾張と美濃は平穏であったが、道三の死後不穏な

動きになった。

正勝は尾張の岩倉城主・織田信賢に仕えたが、

織田信長と織田信清の連合に攻められ降伏。


今度は信清仕えるが、信長と信清が争って信清は

甲斐国へ逃亡、最後は信長に仕えた。


秀吉は織田氏に仕える前に正勝に仕えていた

とも言われ、秀吉から口利きで家臣になったとか、

秀吉の父が正勝の父の配下であったからという説。


また信長の側室・生駒佳乃の推薦とか、正利の

側室と秀吉は義弟に当たる浅井長政との従兄弟

との関係で秀吉の与力になったのも考えられる。


また蜂須賀小六は野党の頭目とされていいるが、

「墨俣一夜城」の話で秀吉の生い立ちを面白く

するための演出であり、蜂須賀家の子孫はその

イメージで苦しんだそうです。


秀吉との出会いも矢矧川の上で出会ったと

されているが、これも虚伝で面白くするための

作者の意図だった。

当時は矢矧川は架かっていなかった。

スポンサードリンク

正勝の調略

1566年(永禄9年)、織田信長の美濃攻略

のため、秀吉が城を築いたとされている

「墨俣一夜城」の築城に協力した前野長康、

土豪衆の稲田大炊助、青山秀昌、長江景親、

梶田景儀などの一人として正勝と弟の又十郎は

秀吉の与力として付けられた。


また斎藤方を調略する案内役としても活躍し、信長

より50余村と500貫を褒美として与えられた。


1568年(永禄11年)、近江六角攻めで、

秀吉与力として箕作城の攻撃に参加し活躍した。

信長に従って上洛もした。


1569年(永禄12年)、秀吉の代官として

京に留まって警備にあたっていたが、5月に

二条城が火災に見舞われ、それをすぐ鎮火

させたことに足利義昭は正勝に桐の紋が入った

羽織を褒美として与えた。


信長もこのことを聞き正勝に尾張春日井郡

三淵郷に5000石を褒賞として与えた。


それからも秀吉に従軍し数々の功績をあげ、

秀吉からも信長からも褒美を受けていた。


1577年(天正5年)から中国攻めが始まった。

息子・家政も秀吉の譜代衆となり従軍した。


1579年(天正7年)の播磨三木城攻めで

苦戦はしたが、小早川勢を撃退して、兵糧強奪も

果たし、糧米輸送を阻止した。

広瀬城も正勝と家政で落城させた。

家政には広瀬城を与えられ、初めての城主に

なった。

播磨を平定すると秀吉は姫路城、正勝にも播磨

龍野城5万3000石を与えた。


その年に秀吉は正勝の娘と黒田孝高の長男との

婚約を成立させ、両輪の和を固めた。


1581年(天正9年)、因幡鳥取城攻めにも

従軍して、城を包囲する寄せ手に入った。


この5か月続いた籠城期間中、正勝は吉岡城、

大崎城、鹿野城を調略して落とした。

吉川軍が伯耆の国に侵攻してきた時、背水の陣を

布いた吉川軍に対して、正勝は秀吉に進言した。

死に兵と戦う不利を説き、秀吉は軍を引き決戦を

回避した。


11月、秀吉は信長の許可を得て姫路遠征を行った。

摂津尼崎の池田之助が岩屋城を包囲したので、

由良城の安宅清康は投降を申し出た。

すると淡路城は降伏して諸城が開城した。


1582年(天正10年)4月より備中高松城の

戦いが始まり、水攻めが行われた。

正勝、孝高は清水宗治を降誘させようとしたが、

失敗に終わった。


しかし長期包囲の水攻めで毛利勢は清水宗治、

月清、難波宗忠、末近信賀の切腹と開城で

和睦を図ることで、6月3日、城兵の助命を

取りなす書状が正勝に届き、翌日4名は切腹した。

しかし2日前には本能寺の変で信長は死を遂げて

おり、すぐに正勝、孝高、安国寺恵瓊と協議させ

毛利氏との和議を進め、5日には陣を引き払い

中国大返しが始まった。

秀吉の時代での活躍

正勝と孝高は毛利氏との取次役も務め、毛利氏と

織田氏の5か国割譲には年月がかかり、正勝は

三度中国に行き、この大任を全うした。


清州会議の後、織田家重臣の柴田勝家との

折り合いが悪く、1583年(天正11年)

3月に勝家出陣の知らせが入り、秀吉軍も

動き出した。


正勝はまだ毛利氏との折衝があり、部隊を与力の

赤松広秀に任せていた。

そして追撃の途中、北陸に進んで尾山城を降伏させ、

長島城の滝川一益のもとに派遣され彼の投降を受け

入れた。


1584年(天正12年)重臣の杉原家次が死去した。

そのため正勝が家中における筆頭格の老臣となり、

大阪城のすぐ側に新しい邸宅を与えられ、

側近として毎日登城した。


そのため所領の龍野の経営は家政が行い、正勝は

家督を家政に譲り蜂須賀家当主は隠退した。


家政は紀州征伐において手柄を立てた。

また太田城の籠城にした太田左近は水攻めにされ

兵糧も尽きたので、使者を正勝に送り、首謀者

36名の命と引き替えに一揆勢の婦女子の助命を

嘆願して、秀吉に許された。


自害した者達を葬り、首塚で弔ったのは正勝と

されてる。


秀吉は四国征伐の前から先勝した暁には正勝に

阿波一国を与えるつもりであった。

しかし正勝は、すでに隠居の身であり、大阪で

秀吉の側近として仕えることを秀吉にお願いして、

その代わりに子の家政に与えてほしいと希望した。


長宗我部元親は和議に応じ降伏した。

阿波一国は家政に与えられた。


1586年(天正14年)になると正勝は

病と闘うようになり、京都で療養していたが、

5月22日に邸宅で死去した。

享年61歳。

スポンサードリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする