金ケ崎の戦い! 織田信長 朝倉家・浅井家を滅亡に追い込む!

尾張の戦国大名・織田信長は駿河の今川義元を討ちはたしたが、

美濃国の斎藤道三が嫡男の斎藤義龍に討たれ、斎藤道三に味方した

明智一族も一部を除いて滅ぼされた。

その斎藤義龍も病気で倒れ、息子の斎藤龍興が美濃国を治めた。

信長はその斎藤龍興から父子の念願だった美濃国を奪い取った。

また妹のお市を浅井長政に娶らせ、上洛の準備をしていった。

上洛伴い反織田信長・足利義昭軍を制圧するため、浅井長政の

力をかり、六角義賢を破り、無事上洛が果たされた。

それから越前の朝倉義景への上洛を促したが朝倉義景は拒んだ。

これにはいろいろあるが、朝倉家が織田家より下になる。

また上洛すれば本国が心配になる。

また信長も朝倉家を抑えたい等いろいろな説がある。

いろいろあるが信長は義景の討伐を決意した。

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金ヶ崎の戦い

1570年(永禄13年)4月20日、織田信長・徳川家康連合軍で

3万の軍勢で京を出陣した。

その中には池田勝正・松永久秀など近畿の武将や、公家も従軍している。

4月25日に朝倉領入った連合軍はまず天筒山城を落とし、金ヶ崎城の

朝倉景恒を攻撃して、信長からの降伏勧告受け入れ城を明け渡した。

織田・徳川軍が優勢であったが、思いもよらぬことが起こった。

信長の義弟である盟友北近江の浅井長政が裏切ったという情報が入った。

信長は信じなかったが次々と裏切りの情報が入り、撤退を決意した。

秀吉にしんがりを務めさせ、金ヶ崎城に残した。

信長は近江豪族の朽木元綱の手助けで、越前敦賀から朽木を越えて

京都に入った。

本隊も京に入り、最後のしんがり秀吉は盗賊団に襲われそうになったが

説得上手な秀吉は盗賊の頭領・猿飛仁助を配下にしてしまい、その後の

秀吉の出世に貢献させた。

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姉川の戦い

信長は兵の立て直しするために5月9日に京を出発して岐阜に向かった。

朝倉義景は敦賀に残り作戦を考え、朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に

出発させ、浅井軍と合流して南近江まで出向き、六角義賢と連携をとり、

挟み撃ちにする作戦だった。

しかし連携が上手くいかず、信長は岐阜まで戻ることができた。

6月4日には六角義賢父子は柴田勝家のいる長光寺城を取り囲んだ、

中にいる柴田勝家は軍議を行い、籠城ではなくうって出た。

六角軍は柴田軍の勢いに押され、義賢は石部城へ落ち延びた。

一方浅井・朝倉軍は国境の砦を強固にして織田軍の来襲に備えた。

そして朝倉軍は6月15日に越前に引き上げた。

木下秀吉の家臣竹中重治がかねてから調略していた長比城の

堀秀村・樋口直房が織田方に寝返った。

この報告を受けて6月19日に岐阜を出発して長比城に入った。

信長は6月21日に虎御前山に布陣すると小谷城の城下町を

焼き払うよう命じた。

小谷城は難攻不落の城で、攻めるには難しかった。

そして6月24日に信長は横山城を包囲して長政が出てくるのを待った。

そこへ徳川家康が率いる5000人の援軍が織田軍と合流した。

また浅井軍にも朝倉景健率いる8000人の援軍が到着した。

6月27日夜、小谷城から浅井・朝倉連合軍が出陣したことがわかり、

信長は「やっと出てきたか」と喜び、軍議を開き、姉川南側の川岸に

浅井・朝倉軍を迎え撃つ体制を二手に分かれて敷いた。

6月28日6時頃、朝倉軍と徳川軍の合戦が始まり、浅井軍も織田軍と

戦闘が開始された。

朝倉軍は押し気味で合戦を進めていて、家康本陣に近づいてきた。

予備隊の稲葉一鉄の軍が加勢していったんは盛り返したが劣勢であった。

家康は榊原康政に命じて側面から攻撃しろと命令を出した。

榊原康政は姉川を迂回して朝倉軍の側面を攻撃した。

この作戦が成功して朝倉軍は総崩れとなり、撤退していった。

浅井軍は磯野員昌の攻撃で信長本陣に攻め入る勢いであった。

それを見た横山城包囲軍であった氏家直元と安藤守就が駆けつけ、

戦闘に加わった。

守備隊の稲葉一鉄も加わり、浅井軍を一斉に攻めたため、

浅井軍は撤退を余儀なくされ撤退していった。

信長は小谷城近くまで追撃したが小谷城を一気に落とすことなく、

横山城まで戻り横山城を取り囲んだ。

すると横山城は戦うことはせず、織田軍に降伏してきたため、

信長は城番として秀吉を横山城に入れた。

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朝倉家・浅井家の滅亡

これからは義昭の信長包囲網が徐々に進んでゆき信長は悪戦苦闘の

日々が続いた。

1573年3月に義昭は信長と絶縁した。

何故かと言うと武田信玄が動いたからだ。

しかし信玄は西進途中4月に病死し、武田軍は甲斐に引きあげてしまった。

これによって信長包囲網は一角が崩れ、信長は義昭に

くみする武将を次々に攻めていき、7月には槇島城の戦いで勝利し、

義昭を京都から追放した。

これにより約240年続いた室町幕府は滅んだ。

岐阜へ帰った信長に知らせがあった。

かねてより調略をしていた浅井の家臣、磯野員昌が信長についたため

足掛かりとなる山本山城が手に入った。

1573年(天正元年)8月8日、信長は3万の軍を率いて近江に

出撃した。

長政も朝倉に援軍を要請して対抗しようとした。

これにい対して義景は出陣しようとするが、一族から出陣命令を

拒否する者が出て、2万の軍勢で信長に立ち向かう事になった。

そして小谷城の背後にある田上山に戦陣を置いた。

信長軍も10日に山田山に陣取り、他の部隊も小谷城を

包囲するように陣取った。

12日は天候が悪く暴風雨となり、信長はこの天候では

義景も油断しているだろうと思い、1000人の軍を

引き連れ大嶽砦を奇襲し、成功した。

この砦は朝倉軍の前線基地だった。

そこでとらえた兵士を逃がしてやることにより、義景は

大嶽砦の落城を知るだろう。

そうすれば義景は撤退する事を考えるだろう。

信長は次の丁野城を攻め降伏させ、また兵を逃した。

信長は「義景が撤退し始めたら追撃を開始する」この事を

各武将に下知をした。

しかし朝倉軍が撤退を開始しても織田軍の武将は動かなかったため、

信長は自ら本体を引き連れ追撃をした。

これを知った織田方の武将たちは慌てて追撃を始めた。

織田軍は刀根坂で朝倉軍に追いつき、戦闘を開始したが、

朝倉軍は主だった武将も少なく意思統一もできておらず、

混乱していた。

この刀根坂の戦いで朝倉軍の多くは討ち取られていった。

義景は15日に一乗谷に帰陣したが、国内の武将は義景に味方

する者はおらず、兵も500人になっていた。

義景は従弟の朝倉景鏡に、一乗谷を捨てて大野郡の平泉寺に

行きなさいと言われたが、平泉寺は信長に内通していた。

20日義景は六坊賢松寺にいたが、従弟の義鏡の手勢に囲まれ、

近習たちが戦ってくれたが、義景は自害した。

信長はすぐ小谷城へ進路を変え、小谷城を取り囲んだ。

信長は降伏を進めたが断り続け、最終勧告も断った。

27日は長政の父・久政が自害、28日には長政が自害して

朝倉家と浅井家は滅亡した。

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