桶狭間の戦いに敗れた 戦国大名 今川義元

戦国時代の駿河国及び遠江国の守護大名・戦国大名。

今川氏第11代当主。

婚姻関係により、武田信玄や北条氏康とは義兄弟に

あたる。

そして「海道一の弓取り」の異名を持つ戦国大名。


1519年(永正16年)、今川氏親の五男として

生まれた。


氏輝、彦五郎という兄がいて家督相続からは離れ、

4歳で仏門に出され、太原雪斎に預けられた。

そこで雪斎と共にいろいろなことを学び、雪斎は

義元の軍師になり、戦の作戦を立てたり調略で

同盟を結んだりして大活躍であった。


雪斎は桶狭間の戦いの5年前に死んでいる。

桶狭間の戦いで「雪斎が生きておれば義元は死なず

にすんだ」と言われた。

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当主今川義元の誕生

1536年(天文5年)に氏輝が急死すると、

家督の継承権は彦五郎に移った。

しかし、その彦五郎までが急死してしまい

家督継承権が義元に巡ってきた。


母の後押しもあって、征夷大将軍・足利義晴の

一文字を賜り、義元と名乗った。


しかし有力家臣が異母兄の玄広恵探を当主として

立ち上がった。

どこにでもある家督騒動です。

恵探側は幾度か攻撃を仕掛けたが、太原雪斎・

岡部親綱ら義元側の家臣団に押されて苦戦が

続いていた。


また義元が北条の支援を受けることに成功したため

情勢が変わり、玄広恵探敗色濃厚になり花倉城は

陥落し、恵探は自害した。


これで内乱を鎮めた義元が家督の相続を果たして

17歳で今川の当主となり、忠義ある家臣を重用

して体制を整えた。


1537年(天文6年)2月、敵対国であった

甲斐国の武田信虎の娘を正室に迎え、武田氏と

同盟を結んだ。

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甲相駿三国同盟結成

この甲駿同盟で怒ったのは北条氏綱であった。

今までいろいろバックアップしたのに「武田と同盟を

結ぶのは何事か」、と怒りを買ってしまいました。


氏康はすぐに挙兵して駿河に侵攻を始めた。

富士川以東を占領して、今川の家督争いに負けた

家臣団と手を結び、義元軍団を分断した。

義元も武田、上杉から援軍をもらったが、北条には

勝てなかった。


1541年(天文10年)、勝てなかった北条に

一大事が起こった。

北条氏綱が死去、家督は嫡男氏康が継いだ。


また甲斐の武田でもクーデターがあった。

信虎は晴信より、信繁を可愛がったことなどから

不仲説が生じていた。


また、「信虎が可愛がっていたサルを家臣に殺された

ことに怒って、家臣を手打ちにしてしまいました」

また「遠征するたびに資金確保に農民や国人衆が

負担して、甲斐国内での評判は悪かった」


などで家臣団より反発を受け、今川に追放と

なった。


この追放は領民から歓迎された。


1545年(天文14年)、義元は氏康と敵対する

上杉憲政と同盟を結び、北条を挟み撃ちにする

作戦を練った。


義元は武田の援軍を受け河東に侵攻し、上杉軍も

各武将と連合して8万の大軍で河越城を包囲した。

河東では今川軍が北条軍を破り、関東では

上杉連合軍が河越城を攻められ、北条は武田に

仲介を求めた。


義元は和睦を受け入れ河東は義元の領地になった。

北条軍は西からの攻めは無くなったから、東に

力を注ぎ、上杉軍との戦いにおいて逆転勝利を

収めた。


その頃、三河では松平弘忠の妻の兄である水野信元

が松平氏と絶縁し、今川氏から離れ、織田氏に

従った。

弘忠は織田家に対抗するため今川氏との関係を

強化した。


そのために嫡子・竹千代(徳川家康)を人質として

今川氏の本拠・駿府に送ることにした。


1547年(天文16年)、当時6歳の竹千代の

身柄は田原城主の戸田康光が任されたが、康光は

今川を離反して竹千代を織田方に引き渡した。

これは前の年に義元が戸田氏の一族である戸田宣成、

戸田吉光の一族を滅ぼしたため、戸田当主である

康光が策略した。

しかし戸田宗家は義元によって滅ぼされた。


この頃、織田信秀は嫡男・信長に斎藤道三の娘・

濃姫を娶らせ宿敵であった美濃の斎藤氏と和睦し、

三河の攻略に目を向けた。


信秀は調略に乗らない弘忠を武力で攻略することに

した。

4000人の兵で攻撃をしたが、弘忠も今川軍の

応援も得て、互角の戦いであった。

最後は今川氏・松平氏の連合軍が勝ち、織田軍は

敗走した。


1548年(天文17年)の弘忠は家臣の手に

よって殺害された。

このことで岡崎城は無主の状態になってしまった。

1549年(天文18年)今川軍は竹千代奪還作戦に

出た。

安祥城を攻め信弘を捕虜にし、竹千代との交換の

交渉に乗り出し、成功させた。


1551年(天文20年)には織田信秀が病没し、

その後を信長が継いだが、弟の織田信行との争いは

続いた。

1556年(弘治2年)8月、稲生の戦いが

起きた。

信長軍は700人、信行軍は1700人と不利で

あったが、信長は勝利を収めた。


この戦で信幸と柴田勝家は信長、信行の母である

土田御前のとりなしで助命された。


1557年(弘治3年)、信行はまた謀反を企てて

いたが柴田勝家の密告で信長の耳に入った。

信長は仮病を装い、信行を清州城に呼び出し暗殺、

これで信長は尾張統一を成功させた。


今川義元は1554年(天文23年)、嫡子・

今川氏真に北条氏康の娘と縁組して、武田・

北条と婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟を

結成していた。

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今川家の衰退

1558年(永禄元年)に義元は家督を氏真に

譲り、尾張への侵攻に力を入れた。


1560年(永禄3年)5月、那古野城を目指し

2万の兵を率いて侵攻を開始した。


織田方の砦を松平元康に落とさせ、幸先よく

勝利した。

そして本隊を大高城に移動させ、義元は桶狭間山で

休息していた。

この時の義元を守る兵は5000人に過ぎず、

織田軍のチャンスでもあった。

昼頃から豪雨になり今川軍は雨宿りをしながら

休息をしていた。


そこに織田軍が奇襲をかけ、今川軍は驚いて

ばらばらになり、義元の警固も300人くらいで

あった。

今川軍もよく義元を守ったが、ついに力尽き

義元は討たれた。


義元の戦死を聞いた今川軍は戦意を失い、

織田軍の勝利に終わった。

いわゆる「桶狭間の戦い」である。


その後、氏真が後を継いだが、まだ人望薄い

氏真では統制がとれず今川家は衰退していった。


義元の死から9年後、1569年(永禄12年)に

氏真は信玄と家康によって駿河・遠江を追われ

大名としての今川家は滅亡した。


氏真は夫婦で北条家に身を寄せたが、徳川家康の

家臣になり、江戸時代を生き残った。

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