北条早雲、戦国大名への先駆者

北条早雲は戦国大名の先駆者。

「応仁の乱」以後室町幕府の権力は急速に

衰え始めた。

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「戦国時代」


この時期、台頭してきたのは守護大名だった。

守護大名は幕府を無視して領土拡大に走った。

そして争いが始まった。

「戦国時代」の始まりです。


そして力のあるものは守護大名を倒して、

権力を握るようになり、武将として

のし上がっていった。

それが戦国大名である。


北条早雲の父・伊勢盛定は足利義政の

役人であった。


早雲は、若い頃から野心家で、兵を起こし

駿河館を襲撃して勝利している。


早雲は伊豆の国境に近い興国寺城に所領を

与えられ,1487年(長享元年)嫡男の

氏康が生まれる。

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「伊豆討入り」


1491年(延徳3年)に堀越公方足利政知

が没すると、茶々丸が家督争いを起こし、

継母・円満院と潤童子を殺害して

強引に跡目を継ぐ事件が起きた。


1493年(明応2年)4月、管領細川正元が

10代将軍義材を追放して、足利清晃を擁立した。

権力の座についた清晃は母・円満院と弟・潤童子の

仇討ちをするため、幕府官僚の経歴を持ち、

茶々丸の近くに城を持つ早雲に討ち入り命じた。

これを「伊豆討入り」という。

早雲は堀越御所の内情を偵察して、早雲の

手勢200人と今川氏親から借りた手勢300人で

船に乗り、海上から潜入した。

そして早雲の兵は堀越御所を急襲して、茶々丸を

自害に追いやった。


そして伊豆国の統治を始めた。

領民たちを巧みな方法で誘導して、善政を行い、

茶々丸時代の苦しみから領民を救った。

これで領民も早雲に従い、伊豆一国を30日で

平定した。


早雲は伊豆を平定する一方で今川氏の武将としての

活動も行っており、遠江の出兵などにも

参加している。

また、早雲はこの時期から東国戦国期が始まったと

考える。

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小田原城の攻撃


「早雲はネズミが虎になることを信じていた」

早雲はある時、2本の大きな杉の根元をかじって

木を倒したネズミが巨大な虎に姿を変えるという

夢を見たそうです。


これは「2本の大きな杉とは関東管領の山内上杉家と

扇谷上杉家をネズミ年生まれの自分が倒す」と

とらえたそうです。


1495年(明応4年)9月相模小田原城の大森藤頼を

討ち小田原城を奪取した。

この前から早雲はたびたび藤頼に進物を贈り、

藤頼も心を開き、早雲と歓談するようになっていた。

ある時、早雲は箱根山での鹿狩りのために勢子を

入れさせてほしいと頼み、藤頼は快諾してくれた。


早雲は屈強な兵を勢子に仕立てて箱根山に入った。

この攻撃は夜に牛の角に松明(たいまつ)を

取り付けて、早雲の兵が小田原城に迫った。

そして多くの人が一斉に声を上げ、大軍が攻めて

来たかのように思わせた。

これには小田原城内は大混乱になった。

城内は空になり早雲は簡単に小田原城を手に

入れることができた。

早雲は今川氏の武将としても三河まで攻めている。

しかし三河侵攻は失敗に終わっている。

その後、早雲は相模方面へ進み関東南部の制圧に

乗り出した。

このころは今川氏の武将としての活動は

無くなった。


相模方面に進出するためには、三浦氏が勢力を

保持していた。

三浦半島の平定


早雲はこの三浦氏を倒すことが重要になってきた。

三浦氏と度重なる戦で、ついに早雲は三浦氏を

三浦半島の先端の三崎城まで追いつめ、

最後には早雲が勝利した。


これで各族三浦氏は滅び、早雲が相模全域を手中

にした。


早雲は、領土の強化を進めた大名であり、

戦国大名の先駆けとして有名である。


1518年(永正15年)、家督を嫡男の氏綱に

譲り、翌年の永正16年に韮山城にて死去した。

享年として64、88歳と二つの説がある。


早雲の跡を継いだ氏綱、氏康、氏政、氏直と

勢力を伸ばし、五代に渡り関東の覇者に

なっていった。

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