甲相駿三国同盟の崩壊

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武田信玄

甲斐の虎と呼ばれた武田信玄は1521年(大永元年)11月3日に

甲斐を統一した武田信虎の次男で誕生した。

晴信には4歳年上の兄がいたが7歳で夭折し、実質晴信が嫡男になった。

そして1525年(大永25年)弟が生まれた。

これにより父・信虎はだんだん弟を可愛がり、晴信は疎むようになった。

父・信虎は気性が激しく味方でさえ切り捨てたと言う説もある。

そんな中、晴信は信虎の信濃侵攻に従軍し、1541年(天文10年)

には海野平の戦いにも参加している。

しかし1541年(天文10年)6月には晴信によるクーデターが

起こり、信虎は駿河に追放となった。

これで晴信は武田家の第19代当主になる。

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今川義元

また、北条氏と今川氏は姻戚関係にあり、同盟を結んでいた。

初代北条早雲の姉は今川氏親の母であり、早雲の「伊豆討ち入り」

の時も氏親の力を借り、のし上がっていった。

また今川も三河進行などで、早雲の力を借りていた。

しかし1536年(天文5年)今川氏輝が急死すると、今川の

お家騒動で義元と異母兄・玄広恵探との内乱があり、義元は苦戦を

しいられたが北条氏の力も借りて義元が当主となった。

翌年の2月に義元は甲斐の武田信虎の娘を正室に迎え、武田氏と

同盟を結んだ(甲駿同盟)。

義元は北条より武田と組んだ方が今川のためになると思った。

これに怒った北条氏綱は駿河に攻め込んだ。

義元はまだ家臣の統率が取れていなかったため戦が長期化に

なっていたが、1541年(天文10年)北条氏綱が死去し、

氏康が家督を継いだ。

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北条氏康

この年の6月に信虎は晴信によって駿河に追放された。

これで武田、今川、北条は新しい当主を迎え、新たな道を歩む

事になる。

・武田は諏訪侵攻をするために北条と今川との同盟関係がほしかった。

・今川は三河に侵攻して織田を攻めるのに後ろを固める必要があった。

・北条は関東を統一するための同盟が必要だった。

この様なことから、それぞれの思惑を達成するために

甲相駿三国同盟が必要だった。

武田信玄は姻戚関係を増やし、三国同盟の下準備を進め、

1554年(天分23年)甲相駿三国同盟は結ばれ善徳寺の会盟

とも呼ばれた。

甲相駿三国同盟成立

これで今川と北条の関係が安定し、武田は諏訪侵攻を進め、

信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対することになる。

信濃に入ってからは勝利もあるが大敗もあり、かなり厳しい戦であった。

最終的には村上義清は葛尾城を放棄して越後国主の長尾景虎

(上杉謙信)の下へ逃れ、武田は信濃を平定した。

しかしこの事で長尾景虎との戦いが始まり、世に言う

「川中島の戦い」が始まった

一方今川は三河に侵攻してきた織田との戦いに援軍を送っていた。

1549年(天文18年)三河の松平広忠が家臣の謀反で暗殺されると

三河を手中に治めようとしたが、嫡子の竹千代は織田の人質に

なっていたため人質の奪還を策略した。

11月になって織田信秀の子である織田信広(信長の兄)が城主を

務める安祥城を今川は攻撃して信広を生け捕りにし、織田側に

とらえられている竹千代との人質交換に出た。

人質交換は成立した。

これで今川は三河を手中に治め尾張への足掛かりをつかんだ。

一方北条は関東統一を進めるが敵も多く里見、佐竹、宇都宮、そして

上杉謙信である。

上杉謙信は人望も厚く、関東一円の武将は上杉になびいている。

1560年(永禄3年)上杉は関東連合軍を率いて小田原城まで

迫ってきが、その年は大飢饉で作物がなく連合軍も食料が

不足して各国へ帰っていった。

この間も北条は武田の応援を受けたりして持ちこたえた。

今川にも援軍を要請したが義元亡き後のごたごたの中、今川氏真は

援軍を派兵している。

この謙信の北条氏康が討伐の前に今川義元は1560年(永禄3年)

5月に2万余の大軍を引きつれ尾張の那古野城を目指し侵攻を開始した。

先発隊の松平元康は大高周辺の城を落とし幸先良い戦果を上げ、

本体の今川義元を沓掛城から大高城に移動する途中の桶狭間で、

信長軍の奇襲攻撃を受け、討ち死にをした。

これからは今川は滅ぶ道を歩くようになった。

この時、今川の人質であった松平元康は岡崎に入り三河国を

立ち上げた。

三国同盟の崩壊

今川も三河を失い、国衆の反乱もあり遠江を失い駿河まで

追い詰められた。

武田と今川の同盟は危うくなった。

武田は徳川との密約もあり、武田・織田の同盟と織田・徳川の

同盟もあり武田と織田は安定してきた。

また信長は戦をやりたくない相手として武田信玄、信玄は戦を

やりたくない相手は織田信長と双方が認め合っている。

武田は北条に今川の領地を割譲してはどうかと言う話を持ちかけだが

北条は怒り今川を擁護するため兵を送り、甲駿同盟は終わりを告げた。

しかし織田の上洛等で織田中心の情勢へと流れていく。

これで三国同盟は完全に崩壊して、独自で国を守る方針に

転換していった。

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