羽柴秀吉・柴田勝家の賤ケ岳の戦い

明智光秀は毛利輝元に備え中国攻めの羽柴秀吉の応援に行くよう

織田信長に命ぜられていた。

織田信長は本能寺で滞在していた。

しかし明智光秀は中国攻めに行く途中進路を変え本能寺に進軍した。

いわゆる「本能寺の変」である。

本能寺の信長の家来は100人程度、とうてい13000人の

明智勢にはかなわなかった。

あえなく信長は自害した。

この時近くの妙覚寺にいた嫡男で織田家当主の織田信忠も明智勢に

包囲されて自害した。

しかし明智光秀は中国大返しの羽柴秀吉との山崎の戦いで敗れ、

わずか11日の天下であった。

Contents

スポンサードリンク

清須会議

羽柴秀吉は織田信長の弔い合戦後、清須会議に挑んだ。

柴田勝家は上杉景勝との戦いもあり明智光秀を打つことができず、

今回の秀吉に遅れを取っていた。

清須会議では柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で

もう一人の滝川一益は関東の北条氏政との戦でこの会議には

出られなかった。

ここで柴田勝家は信長の三男の織田信孝を押したが、羽柴秀吉は

信忠の嫡男の三法師を押した。

結局三法師が家督を継ぐことになり、後見人を叔父の織田信雄と

織田信孝となり、それを羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興が

補佐することになった。

領地の再配分も行われ、柴田勝家は越前と近江長浜、羽柴秀吉は

播磨・山城・河内・丹波となり、丹羽長秀は若狭と近江二郡、

池田恒興は摂津の池田・有岡・大阪・尼崎・兵庫となり、

織田信雄は尾張国、織田信孝は美濃国、三法師は安土城を相続。

ここで徳川家康が動き始め、天正壬午の乱が発生した。

旧武田領をめぐり徳川、上杉、北条の戦が始まった。

この時織田方は徳川の武田領進出に容認という形をとった。

これに不服を申したのが滝川一益だった。

また美濃国の織田信孝と尾張国の織田信雄も国境で小競り合いを

して仲が悪く、秀吉の信雄と勝家の信孝という構図になっていった。

いわゆる織田内部をめぐる権力争いであった。

スポンサードリンク

前哨戦

秀吉は調略を上手くやり、美濃国の有力武将の稲葉一鉄を味方にした。

勝家も土佐の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を取り込み包囲網を

作っていった。

また勝家は秀吉の不当の振る舞いを避難して、前田利家・金森長近・

不破勝光の3人を秀吉のもとに行かせることになり、これが勝家の

大きな誤算となっていく。

秀吉は勝家の和睦を無視して、近江へ出兵し長浜城を攻撃した。

長浜城主の柴田勝豊は雪のため動けない柴田勝家の援軍を期待する

ことはできなかった。

そして僅かな日数で柴田勝豊は降伏した。

北陸は雪のため行軍できないことをわかっていた秀吉の作戦であった。

続いて岐阜城を攻め、織田信孝を降伏させた。

滝川一益は天正11年正月、勝家の味方をするため挙兵した。

一益は亀山城、峯城、関城、国府城、鹿伏兎城を調略し、自身は

長島城で秀吉を迎え撃った。

一益は長島城にてかなりの抵抗をつづけた。

一方勝家は雪のため動くことができなかったが今起こっている

ことに対して我慢ならず、2月末に出陣した。

スポンサードリンク

賤ケ岳の戦い

勝家は3月12日には3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に到着し、

布陣を完了させていた。

秀吉は3月27日に5万の軍勢で木ノ本に到着して陣を構えた。

4月16日、いったん降伏した織田信孝と滝川一益は勝家に

味方すべく挙兵した。

秀吉はまず美濃の織田信孝を攻めるため美濃に出発したが

大雨のため川の氾濫をみて大垣城に入った。

この時を見逃さず佐久間盛政は柴田勝家に申し出て、

「秀吉がいない今がチャンス」と申し出て勝家はこれを承諾した。

佐久間盛政は鬼玄蕃と称され恐れられていた。

盛政は中川清秀が守っていた大岩山砦を陥落させ、黒田孝高の

部隊に攻撃を仕掛けたが押し通せなかった。

次に岩崎山の高山右近に襲い掛かり高山右近を退却させた。

この時、勝家は盛政に撤退の命令を出したが、これに従わなかった。

4月20には賤ケ岳砦の桑山重晴も撤退を開始した。

これで盛政が賤ケ岳を占領するだろうと思われたが、琵琶湖を

渡ってきた丹羽長秀が海津方面から上陸してきた。

長秀は撤退をしてきた桑山重晴の軍勢と合流し、盛政の軍勢に

襲いかかり賤ケ岳砦を確保した。

この日大垣城にいた秀吉に大岩砦落城の知らせが入り、直ちに

賤ケ岳に引き返した。

木ノ本まで52キロを5時間で移動した。「これが美濃の大返し」

秀吉は盛政隊と柴田勝政隊と戦い激戦となった。

この激戦の中、勝家の部隊に衝撃が走った。

柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱、そして不破勝光・

金森長近の軍勢も退却した。

これは以前三人で秀吉のところへ和議の申し立てを行ったところ、

逆に秀吉に調略されていたのです。

これには勝家も意気消沈した。

勝家は秀吉軍を支えきれず、越前・北ノ庄城に向けて退却した。

4月23日、前田利家が先鋒とする秀吉隊に包囲され自害した。

これにより美濃の織田信孝は降伏し、4月29日に自害。

滝川一益は一か月籠城したが、開城して出家した。

まとめ

明智光秀の裏切りで織田軍団は内部分裂を起こしていき、

羽柴秀吉と柴田勝家の戦いへと発展していった。

柴田勝家は戦は強かったがトップの器ではなかった。

羽柴秀吉は織田信長に仕えたころから人を扱うのがうまかった。

その人望と知略によって出世してきた武将。

これを考えると秀吉の出世術はいろいろな方面で長けていたと思う。

今回の賤ケ岳の戦いでも秀吉は勝家の懐まで調略している。

またこの戦に勝てば天下に号令をかけられる。

秀吉は先まで呼んでいた。

スポンサードリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする