宇喜多秀家 関ヶ原の合戦に参加した大名で最も遅く没した人物 

安土桃山時代の武将で、豊臣政権下では五大老の

一人で、秀吉に重用されていた。

関ヶ原の戦いで西軍について敗れたため

所領を失った。

当時は57万4000石の大名であった。

1572年(元亀3年)備前国岡山城主、

宇喜多直家の次男として生まれた。

直家は毛利と手を組んでいたが、織田信長に

従軍するようになり、毛利と戦っていた。

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秀家が家督を継いだ

1581年(天正9年)に父・直家が病死したため、

宇喜多氏が従軍していた織田信長によって

本領を安堵され、。


この時、羽柴秀吉が中国遠征を進めていたため

宇喜多軍はそれに組み込まれた。


しかし秀家は幼少のため、叔父の宇喜多忠家が代理

として宇喜多軍を率いていた。

また、戸川秀安や長船貞親、岡利勝(この3人は

宇喜多三老と呼ばれた)ら直家以来の重臣たちが

秀家を補佐した。


秀家が11歳の時、本能寺の変において織田信長が

明智光秀に討たれた。


秀吉は毛利と和睦して、毛利の監視役として秀家を

残し、京へ引き返した。


秀吉の時代になると、秀吉の寵愛を受けて、

1588年(天正16年)秀吉の養女(前田利家の娘)

の豪姫を正室にする。

宇喜多家は外様であったが秀吉一門衆の扱いを

受けることになり、数々の戦闘に参加して功績も

多く上げ、慶長の役でも活躍して豊臣政権を支えた。


1598年(慶長3年)秀家は五大老の一人に

命じられた。

そして8月に秀吉は死去した。

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宇喜多騒動

1599年(慶長4年)宇喜多家にお家騒動が

起こった。

宇喜多家元来の重臣と前田家家臣・中村次郎兵衛

との騒動である。


中村次郎兵衛は前田利家の四女が秀家に嫁ぐ豪姫の

付き人であった。


次郎兵衛は経理に強く土木築城技術に優れ、秀家に

重用されていた。


そうすると宇喜多家の重臣とのやっかみが出て

衝突が出てくる。

次郎衛門は宇喜多家重臣から襲撃を受け、前田家に

逃れた。


この宇喜多家を二分する騒動を「宇喜多騒動」

といった。


重臣の戸川達安・岡貞綱らが次郎衛門の処分を

秀家に迫ったが秀家はこれを拒否。

戸川らは大阪の屋敷を占拠した。


秀家は騒動の首謀者を戸川とし、暗殺を謀ったが、

従兄弟の宇喜多詮家はこれに反発し、秀家と

対立した。


騒動の調停は大谷吉継、榊原康政が行ったが

収まらず、家康が裁断を下した。

戸川達安は他家へ蟄居処分、花房正成と岡貞綱は

宇喜多家を出奔し、騒動は収まった。


しかし宇喜多家の重臣が居なくなったことから

軍事的・政治的衰退はこの時期から始まった。

これは家康の策略という話もある。


この三人は後に徳川家康の家臣となった。

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関ヶ原の戦い

秀吉没後、豊臣秀頼の後見役であった前田利家が

1599年(慶長4年)に死去すると、豊臣家内

での派閥抗争が始まった。


武闘派の加藤清正・福島正則らと、文字派の

石田三成・小西行長との派閥抗争が表面化して

石田三成の襲撃事件が起こった。

三成はかろうじて佐竹義宣 に助けられた。


徳川家康は会津征伐に東進した。

家康は「自分が居なくなれば三成は兵を挙げるだろう」

と呼んでいた。


案の定、三成は毛利輝元と打倒家康のために挙兵した。

秀家も西軍の副大将として西軍についた。

西軍の中では最大の兵を出し、東軍の福島正則軍と

戦っていた。


その時、小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、

宇喜多軍は壊滅した。


関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易されたが、

秀家はなんとか落ち延びていた。


島津義弘を頼って薩摩国に落ち延びたが、「島津氏が

秀家を庇護してる」という噂が広まり、身柄を家康の

もとに引き渡され、八丈島へ配流となった。


八丈島では加賀前田氏・宇喜多旧臣から援助は

受けていた。

また八丈島を所領としていた源家にもよく

招待されていた。

源家は宗福寺の住職も兼ねていたから、宇喜多家の

菩提寺として有名である。


1616年(元和2年)秀家の刑が解かれ、前田利常

から前田家から10万石分け与えるから大名復帰したら

どうかと勧められるが、秀家はこれを断り八丈島に

留まったとも言われている。


1655年(明暦元年)11月20日死去。

享年84歳であった。


大名の宇喜多家は滅亡したが、秀家と一緒に流刑に

なった長男と次男は子孫を繋ぎ、宇喜多家の墓を

今も守っている。


また八丈島。大賀郷の南原海岸には、西(=備前国)を

臨む秀家と豪姫の石像が建てられている。

まとめ

10歳から家督を継いで5大老までのし上がった。

秀吉からかなり可愛がられ、秀家も秀吉を尊敬して

いたと思う。


しかし時の流れによって不運にも八丈島の島流しに

なってしまった。

「秀家はやることはやった」そのことで自分の出る幕は

無くなったと悟り、島の生活にとどまったのではないか。


今は秀家と豪姫の銅像が八丈島から西を眺めている。

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