織田信長の美濃攻め

織田信長は尾張の「おおうつけ」と言われ

みんなからの信頼はあまりなかった。

その男が凄いことをやりました。

1560年(永禄3年)桶狭間の戦いにて

今川義元を討ち取ったのです。

そのことで尾張の織田信長と言う

名前が天下に知られました。

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三河の松平元康誕生

その時、今川軍の先鋒を任されていたのは

松平元康(後の徳川家康)であった。


元康は織田領内へ進軍して戦績を上げて

いたが、今川義元本隊に織田軍が押し寄せ

義元は不覚にも織田軍に討たれしまった。


この事を知った、松平元康は今川氏から離れ、

岡崎城に逃げ込んだ。

そして古巣である三河の国を固めた。

信長は元康を打とうとせず、応援した。


後に信長と元康(徳川家康)は同盟を

結んだ(いわゆる清州同盟)。

これでお互いに背後からの危険が無くなった。


信長は1563年(永禄6年)、美濃攻めの

ため居城を小牧城に移した。

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美濃攻略

1565年(永禄8年)信長はかねてから

トラブルがあった犬山城の織田信清を下し、

尾張統一を果たした。


また甲斐の武田信玄との関係も上手く運び、

同盟を結んだ。


美濃の斉藤道三亡き後、信長と斉藤氏とは

険悪なものとなっていった。


1561年(永禄4年)斉藤義龍が急死すると

嫡男・斉藤龍興が家督を継いだ。


ここで信長は美濃国へ出兵する。

この時信長は北近江の浅井長政と同盟を

結んで、妹のお市を輿入れさせた。

信長の思惑通りにことが進んだ。


これで美濃国周囲を同盟軍で囲んだ。


1561年(永禄4年)美濃に侵攻して

斉藤軍を打ち破り連勝を重ねた。

その勢いで稲葉山城に攻め込むが、落城

できず撤退する


1563年(永禄6年)信長は東美濃から

侵攻するが、龍興に敗れている。


しかし斉藤家も当主が若く家臣団の統率が

取れず、斎藤氏の衰退が明らかになり

離反も目立って行った。

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墨俣一夜城

1965年(永禄8年)加治田城主佐藤忠能

が信長に寝返り、同洞城の岸信周は信長に

討たれた。

関城主の長井通利も斉藤利治にうたれ、

信長は中濃地方も治めていった。


1566年(永禄9年)藤吉郎が一夜

にして築いたとして伝えられる「墨俣一夜城」

をご存知の方が多いと思います。


これは信長が重臣の柴田勝家、佐久間信盛に

長良川対岸に城を作れと命じたが、ことごとく

失敗に終わった。


その時、藤吉郎が「7日で完成させます」

と言上し、蜂須賀小六と協力して完成させた。


これは藤吉郎が出世をして関白までのぼり

つめたから、この時の伝承が江戸時代に

誇張されて「一夜城」になったのではないか?

斉藤龍興の最後

1567年(永禄10年)西美濃三人衆の

稲葉良通、氏家直元、安藤守就らが信長に

落ちたため、稲葉山城を攻め落とすことが

でき、信長は居城を稲葉山城に移し、地名を

岐阜と改名し、稲葉山城も岐阜城とした。


斉藤龍興は北伊勢の長島へと亡命するが、

織田軍に攻められ逃亡生活に入る。


1970年(元亀元年)龍興は信長に対する抵抗

を各地で続けたが、1573年(天正元年)

8月、織田軍に敗れて戦死した。

享年26歳であった。


これで信長は上洛を果たした。

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