羽柴秀吉 中国大返しでの弔い合戦 山崎の戦い

織田信長が討たれたころ、織田軍の羽柴秀吉は

中国攻めで備中高松城の戦いをしていた。

高松城の周囲は沼地が多く、難攻不落の城と

されていたため、持久戦を覚悟で戦っていた。

しかし毛利軍4万が迫っている中、のんびりは

出来ない。

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水攻め

堤防を作って、城ごと水没させる方法を取った。

12日間で堤防が完成すると川の水を引き、

高松城は孤島の城になってしまい、水は城内にも入り、

小舟で連絡を取り合っていた。

高松城城主清水宗治は、毛利軍が近くに

いるが、身動きがつかず織田の援軍が

来ることから秀吉との講和を決めた。

始めは「5国割譲と城主清水宗治の切腹」

だったがこれを拒み、物別れになった。

説得を重ね、宗治は主家の毛利家と城内の

兵の命が助かるなら自分の首を差し出そう

と決意した。

そんな時(6月3日)秀吉は明智光秀から

毛利方に送られた死者を捕らえ、光秀の謀叛で

信長が亡くなったことを知る。

このことは毛利方に知られぬよう和睦を早めた。

清水宗治は秀吉から送られた酒と肴で宴を

行い、城内の清掃を家臣に命じ、秀吉のもとまで

小舟で渡ってきた。

そこで秀吉と杯を交わし、舞を踊った後

「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の

名を高松の 苔に残して」と言う句を残して

自害した。

秀吉は武士の鑑として賞賛した。

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情報戦

秀吉は毛利の出方を見極めて6日の日に

京都への移動を開始した。

毛利軍が本能寺の情報を手にしたのは秀吉が

撤退した翌日の事。

秀吉を追撃しようという声もあったが、

小早川隆景はこれを制し、誓紙を交わして

いる以上和睦を尊重すべしと主張して、追撃は

しなかった。

また毛利軍が追撃することはいろいろな事情で

困難であった。

秀吉も、もし攻撃された時を想定して

宇喜多秀家軍を配置してある。

それも突破されたら、南条元続が毛利軍の

背後を攻める手はずになっていた。

秀吉は姫路城に帰るまでにいろいろ手を回し、

明智光秀に近い中川清秀に手紙を送っている。

内容は「上様(信長)ならびに殿様(信忠)

いずれも御別儀なく御切り抜けなされた候。

膳所が崎へ御退きなされ候」

これは信長様も信忠様も無事に難を切り抜け、

近江膳所逃れているということであり、続けて

福富平左衛門が比類ない働きをした、めでたい、

自分も早く帰城すると記している。

これは秀吉の企みであり、本能寺の変に伴う

清秀の動揺や疑心暗鬼を、偽情報を流してでも

鎮めようとしたものと考えられる。

また毛利の元に届いた情報では津田信澄・明智光秀・

柴田勝家と書いてあった。

毛利方も秀吉を討っても、大軍のいる京都では

責められないとでも思ったのでしょうか。

こうしていろいろな情報を流して攪乱した

情報戦であった。

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中国大返し

中国大返しの行軍の実態は分かっておらず、

山陽道のルートをとったと考えられる。

秀吉は宇喜多秀家と光秀は通じていることが

わかっていた。

そのため備中高松から岡山へ行くと嘘の

情報を流し、宇喜多の勢力圏内から離れる

ようにして播磨まで駆け抜けたという。

そして姫路城に着いたのは6月8日であった。

備中高松から2日で姫路城に到着したのは

異例の早さであった。

6月9日まで休養を取り、部下に城内の

金銭・米穀を身分に合わせて配った。

これは光秀討伐以外にないことを鮮明にして

兵の士気をあげた。

秀吉は京都に上る時に摂津衆の動きが気になっていた。

しかし摂津衆は秀吉に味方し、筒井順慶も秀吉に

寝返った。

大阪にいた織田信孝・丹羽長秀は軍を立て直し、

最終的に秀吉軍は2万を超えた。

秀吉軍は左翼・中央・右翼と分かれて

攻撃をするよう決まった。

一方、光秀軍は京の治安維持をし、京の

東を固めた。

これは柴田勝家に対する備えであった。

秀吉がこんなに早く来るとは思っていなかった

ことが誤算であった。

京都近編の武将も光秀の誘いに乗るのは

少なく、縁戚であった細川藤孝・忠興親子は

「喪に服す」と言われ、筒井順慶も秀吉側に

寝返った。

光秀軍は秀吉軍の進軍に対応できる状態では

なかった。

策略家であった光秀も墓穴を掘っていった。

山崎の戦い

6月12日頃から合戦が始まり、翌13日まで

小競り合いが続いたが、戦局が大きく動いたのは

池田恒興・元助父子と加藤光泰率いる手勢が、

密かに川を渡り、津田信春を奇襲したことから

光秀軍は混乱しだし、丹羽隊・信孝隊も右翼から

いっきに押し寄せた。

これに続き中川・高山隊も斎藤・伊勢隊も

活気ずき、明智軍は総崩れとなった。

光秀は勝竜寺城まで落ちのびたが、その時の

兵の数は700人となっていた。

そして城を密かに出て居城の坂本城まで

落ちのびる途中で土民の落ち武者狩りに会い

絶命した。

秀吉は翌日に勝竜寺城に入り体制を整え、

落ち武者狩りと光秀の首、そして近江を

平定した。

秀吉はこの信長の弔い合戦に勝利した結果、

信長の後継者として地位を固めていった。

まとめ

光秀の敗因は兵力の差だと思う。

それと秀吉が予想以上に早く来た事。

周辺勢力の助けがなかった事。

兵を近江方面に割いていた事。

結局兵力不足だった。

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