戦国時代最後の武将 真田信繁

真田幸村として人気を得ているが、実際のところ

幸村と言う名前は文献にあまり乗っていない。

幸村と言う名前が知られるようになったのは

大坂夏の陣が終わって60年ほど過ぎた軍記物に

出てくる名前だそうです。

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真田家の戦

1567年(永禄10年)、真田昌幸の次男として

生まれた。

長男の信幸は源三郎、信繁は源二郎と言われていた。

真田家は祖父に当たる真田幸隆の頃は甲斐国の

武田晴信に仕えていた。

そして叔父の真田信綱も晴信に仕え、先方衆として

信濃や越後との抗争に活躍していた。

父の昌幸は幸隆の三男で、武田庶流の武藤氏の養子に

なっていたが、長篠の戦いで長男、次男が

戦死したため真田家に戻った。

1582年(天正10年)3月に、織田・徳川連合軍の

侵攻で武田家は滅亡した。

この時、真田家は織田家に従い、上野国吾妻郡・

利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵された。

信繁は人質として滝川一益の支配下にあった。

この時「本能寺の変」がおき、信長が倒れると、

上杉、北条、徳川の武田領の奪い合いが起こり、

この地を守っていた一益は北条の侵攻軍と

対戦したが敗れ、伊勢に落ち延びた。

信繁はこの騒動で木曽義昌に引き渡され、昌幸は

領地を奪われないように、上杉に帰属していた。

昌幸は徳川の言い分に反対して徳川との戦が始まった。

(第一次上田合戦)

結局昌幸の優れた戦略が評価され家康は脱帽であった。

昌幸は豊臣秀吉に服属し、大名扱いとされた。

信繁はまた人質として大阪に移った。

また信繁は大谷吉継の娘と結婚し、秀吉の馬回衆として

活躍していた。

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関ヶ原の戦い

秀吉の死後、1600年(慶長5年)暗雲が立ち込め

関ヶ原の戦いが始まった。

この時兄、本田忠勝の娘を妻にしていた信幸は

家康側につき、昌幸と信繁は西軍についた。

二人は上田城で徳川秀忠を迎え打つべき準備を進め、

徳川軍が真田軍の攻めに手を焼き、日数だけが過ぎていった。

しかし関ヶ原の戦いで東軍の勝利となり、昌幸、信繁は

兄や忠勝の計らいがあり、高野山の九度山に幽閉された。

しかし1611年(慶長16年)に昌幸はこの世を去った。

翌年に信繁は出家した。

この頃になると豊臣、徳川のにらみ合いがひどくなってきて、

1614年(慶長19年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに

徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。

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大阪冬の陣

信繁も大阪方の説得に応じ大阪城に入城した。

信繁は近江国まで攻め落とし、支配下にして徳川を

迎え撃つ提案をしたが、籠城案になってしまった。

信繁は考え大阪城の弱いところを補強するために

真田丸を作って、大阪城の弱いところを

補えるように真田丸で守る対策であった。

真田の赤備えのが登場した。

真田丸の前にある篠山の前に陣を作った前田勢は

篠山にいる真田勢の妨害に悩まされていた。

前田勢が考えた戦法は夜襲であった。

しかし行ってみると真田勢は撤収した後、

でもぬけの殻だった。

これも信繁の戦略で、今度は夜明けとともに前田勢を

真田勢が挑発して、真田丸に十分近づけてから

鉄砲で攻撃を仕掛け、前田勢は多くの兵を失った。

しかしこの事を知った井伊、松平勢も攻撃を仕掛けて

きたが、豊臣軍は敵兵を城壁に近づけてから

攻撃したため、徳川軍の損害も多くなった。

これに怒った家康は撤退後、各武将に叱責した。

冬の陣の講話が始まり、大阪城の堀は埋められて

裸の大阪城になった。

そして家康は信繁の叔父の真田信尹を派遣し、信繁の

寝返り作戦に出たが信繁は秀頼には恩があるから断るとの

返事でした。

家康はまた叔父の真田信尹を派遣し、信濃一国を

与えると行ってきたが、信繁は「信濃一国どころか、

日本国中の半分をいただけるとしても、私の気持ちは

変わりません」と立腹して対面をしなかったという。

大阪夏の陣

翌年の大阪夏の陣が始まると、道明寺の戦いで伊達政宗隊を

後退させたが後藤基次を失ってしまった。

信繁はこれで豊臣家の命運は尽きたかもしれないと言って

討ち死にを覚悟した。

それを聞いた毛利勝永は「せめて豊臣秀頼様の馬前で

華々しく死のうではないか」と信繁を説得し退却に移った。

この時、真田隊はしんがりを務め、追撃をしてくる

伊達隊を撃破して全軍の撤収を完了させた。

この時、伊達政宗に言わせた言葉が「関東勢百万と候え、

男はひとりもなく候」

この後、信繁は作戦を右翼隊、左翼隊に分け、家康本隊を

孤立させる命令を全軍に知らせたが、徳川の本田隊が

毛利隊に発砲して応戦が始まった。

そして射撃戦は激しくなり、信繁は死を覚悟して

徳川本隊に突撃を開始した。

それに全軍が続き、豊臣の部隊が全線で奮闘して、

徳川勢総崩れに近かった。

真田隊は松平忠直隊の15000の大軍を撃破して、

次々に突破して家康本体に向かって突撃をして

徳川の親衛隊とぶつかり合って、二度も

本隊を攻めた。

この時、家康は二度死ぬと思ったそうです。

しかし思わぬ事が起こり、豊臣隊は戦意が鈍った。

それは大野治長が秀頼を担ぎだすため、秀頼の馬印を

上げたまま帰ったから全軍が引き上げの合図と思い、

勘違いをしてしまった。

この時徳川隊は一気に反撃を開始した。

戦国最後武将 真田信繁

真田隊は奮闘していたが次々に味方が倒れ、

信繁は家康に肉薄しながら撤退を余儀なくされた。

これで大阪方は敗北が決まった。

信繁は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の

境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていた。

そこに松平家鉄砲組頭西尾宗次に発見され

「この首を手柄にされよ」と言って討ち取られた。

真田隊の馬印は六文銭である。

これは中国の習俗で、本人が亡くなった後、三途の川の

渡し賃の事である。

これを旗印にすることは「不惜身命」を意味する。

これは仏語で、仏道修行のためには身命も惜しまないこと。

死をもいとわない決意。

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