戦国武将の影には忍者がいた


忍者は源平時代以後日本で発祥し、技を磨き、

日本各地に散らばって、全国に忍者流派が

たくさんできた。

資料が確認されているだけでも流派は

31流派あるそうです。



中でも伊賀・甲賀忍者の名前が良く

知られていると思います。


伊賀・甲賀は鎌倉時代からの荘園と

言うことで支配を受けなかったから、

日々の練習が行われ、忍者屋敷が

多くあった。


伊賀・甲賀・雑賀・柳生・根来棟は

紀伊半島で天皇が住んでいた関係で

国人たちが協力し合い、自治組織を

構成していった。


戦国時代になると荘園は無くなり、

ゲリラ戦等をするために「忍者」が

必要になり、全国に広がっていった。


戦国時代では

北条家に仕えたのは「風魔」正しくは

カザマと言う。

武田信玄は「透破」スッパと呼ぶ。

伊達政宗は「黒脛木組」クロハバキグミ

真田家にもいろいろな流派の忍者がいた。

他の大名でも忍者は活躍していた。

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伊賀忍者の上忍三家

伊賀衆

鎌倉時代から室町時代にかけて小領主が

自らを守るためゲリラ戦の技を磨いて

いったことが忍者の始まりである。

伊賀には上忍三家(服部・百地・藤林)

がありこの三家の言うことは絶対であった。


服部家

壇ノ浦合戦で平家一門について戦った

服部家長の末裔。

その後は伊賀に移り上皇の身辺警護に

当たり、11世紀末には白河法皇が

創設した院の直属軍として動員された。

戦国時代は足利義輝に仕え、後に松平清康

に仕え、その後服部正成(服部半蔵)は

徳川家康に仕え、伊賀忍者を率いて

活躍した。


百地家

表向きは伊賀一帯を治める土豪であった。

裏では伊賀流忍者の上忍で、天正年間では

伊賀南部を治めるて最盛期を築き上げた。

織田信長の攻撃では負けたものの、子孫は

引き継がれている。


藤林家

藤林長門守は伊賀上忍三家の一つで藤林の

当主であり、伊賀・甲賀双方に影響力を

持っていた。

服部家の分流とも、百地・藤林が同一人物

だったという説もあり、謎の藤林である。


伊賀忍者はこの上忍三家により、自治が

守られ他の地域のように国を支配する

大名はおらず、隣国の大名の支配も

受けなかった。


しかし織田信長が近畿一円を支配しても

伊賀は命令に従おうとはしなかった。


信長の次男信雄は伊賀国を手中に治めようと

していた。

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 第一次天正伊賀の乱

信雄は伊賀の情報を集め国境近くの丸山城

修築し、侵略の拠点として考えていた。


伊賀もこの情報をキャッチして防衛策を

練り、丸山城完成前に攻撃することが

決まった。


1579年(天正7年)9月16日、信雄は

信長に相談もせず、8000の兵で伊賀に

侵攻した。


10月25日に集結した忍者たちは信雄に対し

総攻撃を開始した。


伊賀衆は夜襲や撹乱戦法、地形を生かした

奇襲などで2~3日で信雄軍を伊勢に

敗走させた。



信雄軍は被害甚大で侵攻は失敗に終わった。

これが「第一次天正伊賀の乱」である。


それを知った信長は激怒して「親子の縁を切る」

と言ったくらい激怒した。


信雄の敗戦を受け、信長が忍者に対する

認識が変わった。

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第二次天正伊賀の乱

1581年(天正9年)9月、織田軍は

5万の軍勢で6か所から伊賀へ侵攻した。

信長にも甲賀衆がついていた。



さすがの伊賀軍団も多勢に無勢で追い込まれ、

最後伊賀軍団は柏原城に立てこもり、

抵抗をしていた。

織田軍も力攻めでは犠牲が多いと判断して

兵糧攻めに切り替えた。


10月25日和睦の仲裁が入り、双方の

和睦が成立した。

これで伊賀衆の命は保証された。


1582年(天正10年)6月21日、

一大事が発生した。

それは「本能寺の変」である。

これでまた忍者が復活した。


この時、徳川家康は境にいた。

追っ手から逃れて三河に戻らなければ

討たれてしまう。

一行は服部半蔵らに守られ伊賀を通り

三河に戻った。

伊賀の土豪は家康一行を守る姿勢であった

「神君伊賀越え」である。


秀吉の時代になると信長の支配下にあった

甲賀忍者は家康の監視に入り、家康側の

伊賀忍者は甲賀忍者の追討の任についた。

これは豊臣と徳川の代理戦争であった。


江戸時代に入ると伊賀組同心として幕府に

召し抱えられている。


その後平穏な時代が続くと忍者も忍者を

やめて帰農したりしてだんだん

消滅していったそうです。

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