織田信長の強さ 天下統一に大きく前進

信長の天下取りは大きく前進した。

その道のりを見てみましょう。

Contents

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室町幕府の滅亡

第二次信長包囲網を敷いた足利義昭だったが

形勢が変わった。


武田氏の西上作戦をを期待してた義昭は

大きな誤算をした。


信長は体制を立て直し、1573年(元亀4年)

義昭は抵抗をやめず、信長に逆らい信長軍に

敗北を喫して、追放された。


これで室町幕府は滅亡と思いきや、義昭は

各地に回り、将軍の地位を保ったまま昔からの

味方に、信長打倒と京都復帰のための指令文書を

各勢力に送っていた。


義昭は追放されたが、まだ将軍職の力は

持っていた。


これにより信長は、足利氏を支持する他の

戦国大名に対する戦いであると考えられる。

朝倉・浅井氏の滅亡

1573年(天正元年)8月、信長は3万

の大軍を率いて岐阜城を発ち近江へ攻め込んだ。

これに対し浅井軍は5000人の軍勢で、小谷城

に籠城した。

朝倉義景も家中の反対を押し切って、2万の大軍

を率いて長政救援のため余呉に本陣を敷いた。


ところが長政の武将である山本山城主が信長に

寝返ったから、織田軍は難なく敵城を落とし、

前進することができた。

この時も織田方の内部工作で、朝倉家の崩壊が

見えてきた。


10日は暴風雨により敵は油断していた。

そこに目をつけ、信長自ら1000人の手勢で

朝倉方が守る大嶽砦を奇襲し、敵を降伏させた。

この時信長は捕らえた敵兵をわざと開放し

義景の陣に向かわせた。

また丁野城も落としたが、敵を解放した。


大嶽城の陥落を知った義景は形勢不利と見て

撤退をした。

しかし信長は徹底的に追撃した。

朝倉軍は主だった武将も倒れ、もはや戦意も

無く、一乗谷城に逃げ帰った。


もはや義景の手勢は500人となり身動き

できなくなり、馳せ参じる武将もいなかった。

最後に平泉寺を頼ろうとしたが、信長と内通

していた。

これで義景は自害して、朝倉家は滅亡した。

8月27日に浅井長政も羽柴秀吉に攻められ

自害した。


この時信長の妹であるお市とその子は落城前に

脱出した。

信長は喜んだが、お市の方は悲しんでいた。

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長島一向一揆の制圧

1501年(文亀元年)松江の地に願証寺が

建設され、蓮如の六男が住職となった。

それ以来地元の門徒衆を増やし、本願寺勢力を

大きく伸ばし、自治勢力であった。

そして城も築いて一大武装門徒衆になった。


1570年(元亀元年)9月、本願寺の

反信長蜂起(石山合戦)に伴って、

長島でも門徒が一斉に蜂起。

第一次長島侵攻

1571年(元亀2年)2月、信長は

5万の兵を率いて伊勢に出発した。

ある程度の戦果をあげ、いったんは引き上げた。

しかし途中の狭い場所で待ち受けにあい。

多くの味方を失った。


この戦で物量で攻めても被害が大きくなり、

忍者戦法に近い攻撃をかけてくるし、制海権を

取っていないため、物資補給も鉄砲の補給も

本願寺はできていた。


信長は制海権を取ることが長島攻略に

欠かせないと知った。

第二次長島攻略

1573年(天正元年)9月に出陣。

しかし船の調達は出来ていなく、いろいろ

手を尽くしたが不調に終わった。

しかし二度目の長島攻撃を敢行した。


いろいろせめて戦績は上がったが、制海権

を取っていないため長島攻略は諦め帰還した。


しかしまた門徒衆による待ち伏せに合い、

織田軍も手痛い負かでを負った。

第三次長島攻略

1574年(天正2年)6月、信長は

三度目の長島攻略に出た。

この時は織田軍が過去にない軍勢で長島に

向かった。

その数は7~8万であった。


東の市江口から織田信忠、西の賀鳥口から

柴田勝家、中央の早尾口から織田信長、そして

水軍の九鬼嘉隆も加わり、7月14日に陸上の

部隊による総攻撃が開始された。

長島攻略

翌日には尾張の兵を乗せた九鬼嘉隆の大船団が

到着して敵兵を責め立てた。

これに織田信雄の船団も着き、長島は織田軍の

軍船で埋め尽くされた。


陸上、海上、東西南北から責め立てられ諸砦は

次々落とされ、一揆衆は長島・屋長島・中江・

篠橋・大鳥居の5つの城に逃げ込んだ。


しかし大鳥居城と篠橋城は大砲で砲撃して、

兵糧攻めにした。


信長はこの門徒宗を断固として許さなかった。

長島城は兵糧攻めで餓死者が続出した。

そして残る屋長島城と中江城は幾重にも柵を

作り、火攻めにした。


城中の2万の男女が焼け死んだという。

これにより長島は完全に信長の手に入った。

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長篠の戦い

長篠城攻防戦

長篠の戦で有名なのが鳥居強右衛門(とりい

すねえもん)の話ではないか。


長篠城の城主は奥平貞昌であった。

貞昌の父が武田信玄の死に疑問を持っていた。

そこで武田を裏切り、徳川についた。

そして、徳川、武田の最前線の長篠城を

与えられた。


1575年(天正3年)4月に武田が動き出し、

長篠城を包囲した。

武田方1万数千に対して、長篠城の守備隊は

わずか500人であった。


しかし鉄砲も大鉄砲を多く持ち、周囲を谷川に

囲まれた城で、何とか武田軍の猛攻を

持ちこたえていた。

しかし兵糧蔵が焼失し最悪になっていた。


貞昌の家臣である鳥居強右衛門が密使として

岡崎城に行き、このことを家康に伝えた。


織田も徳川も出陣の準備は整っていた。

強右衛門はこのことを味方に知らせようと

戻ったが、武田方に見つかり捕らえられた。


武田方は強右衛門に「援軍は来ない。諦めて

早く城を明け渡せ」と言え、と命令した。


強右衛門はわかったと言い、翌日磔りつけ柱に

裸で縛られた強右衛門は大声で叫んだ。

「あと二、三日で数万の援軍が来る。それまでは

持ちこたえよ」と言って、その場で殺された。

城内の兵は士気が上がり連合軍が来るまで

城を守った。

鳶ケ巣山攻防戦

信長軍3万、家康軍8千が長篠城手前の

設楽原に着陣。

この時、信長は「野戦築城」をした。

これは軍をとぎれとぎれに配置し、土塁に

馬坊柵を作り、鉄砲隊を柵や土塁で守り、

騎馬隊を迎え撃つ戦術であった。


武田方も軍議を開き、重臣たちは撤退を

進言したが、勝頼は決戦を支持した。

この時重臣たちは集まり、酒を酌み交わし

決別したとも言われる。

武田の武将はこの時から何かを感じていたかも。


信長は家康の重鎮・酒井忠次を呼び、鉄砲・

弓の優れた兵を2000人選び出し、信長の

鉄砲も加え、約4000名の別動隊を組織し、

奇襲を命じた。

長篠の戦い

長篠城には4つの砦があり、長篠城を包囲

していた。

別動隊は始めに鳶ヶ巣山砦を攻撃して落とし、

残りの砦もすべて落とした。

そして奥平軍と別動隊は武田軍を掃討して

武田軍本隊まで近づいていた。


この鳶ケ巣山の攻防で、武田方は名のある

武将が討死した。

設楽原決戦

武田軍は織田・徳川連合軍に襲いかかった。

しかし馬坊柵や土塁等に阻まれて戦死者を

多く出し、名のある武将も多く失った。

武田軍の戦死者は1万名以上にも上り、

連合軍は戦死者がほとんど見られなかった。

織田・徳川連合軍の勝利に終わった。


信長は細川藤孝に当てた書状に

「天下安全」の実現のために倒すべき相手は

本願寺のみと述べた。

越前侵攻

越前は守護代を置いていたが、本願寺門徒が

奪った。

しかし内部分裂が起こっていた。

信長は長篠の戦いが終わってすぐの8月に

越前国に行軍した。

門徒衆は内部分裂のため迎撃ができず、

12000人余りの門徒衆が討伐された。


右近衛大将就任

1575年(天正3年)11月、信長は権大納言に

命じられ、右近衛大将も兼任することになった

これで朝廷からは「天下人」であることを、

承認されたものとされる。


信長は嫡男・信忠に織田家の家督及び美濃・尾張

の領国を譲った。


1576年(天正4年)1月から安土城の築城を

開始し、1579年(天正7年)に五層七重の

豪華絢爛の安土城が完成した。

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