織田信長 上洛後の信長包囲網

尾張、美濃の二か国を治めるこのになった

織田信長が「天下布武」の印を使用し、

幕府再興ののろしを上げた。

1560年(永禄3年)5月、桶狭間の戦いで

今川義元を破り、天下にその名をとどろかせた。


1563年(永禄6年)美濃攻略のため、本拠地を

小牧山城移し、1565年(永禄8年)

かねてから争いがあった犬山城の織田信清を下し、

尾張統一を達成。


1567年(永禄10年)美濃の斉藤龍興を破り、

美濃を攻略して地名を「岐阜」と改名した。

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信長上洛

室町幕府、最後の将軍足利義昭は松永久通や

三好三人衆らにとって幽閉・監視された。

だが殺された父の側近に助けられ、近江国の

六角義賢に許しを得て、甲賀郡の和田城に

入った。

そこからいろいろな奉り事に従事した。

でも放浪の旅は続いた。


若狭国から越前国へ、そして朝倉家の家臣

であった明智光秀の仲介により織田信長と

面会した。


義昭はこれまでもいろいろな武将に手紙を

出していたが最終的には織田信長であった。


信長はこれで大義名分があり、幕府への

近づきに成功した。

義昭も、これで室町幕府も再興できると

信長に感謝した。


1568年(永禄11年)9月、織田信長軍、

浅井長政軍に守られ上洛を開始した。

途中抵抗もあったが、無事に京都に到着できた。


その時、病気を患っていた14代将軍足利義栄

が死去したため、朝廷から将軍宣下を受けて

足利義昭は第15代将軍として就任する。


そして織田信長が美濃に帰還すると、三好三人衆

の巻き返しに合い、義昭は「これまでか」と

思っていたが、浅井長政・池田勝正・三好義継らの

活躍によって三好三人衆を撃退した。


この戦で烏丸中御門第(旧二条城とも呼ばれる)

の補強整備が必要と感じ、信長に補強と整備を

命じ、二重の水堀で囲い、石垣を高くして

防御機能を充実させた平城が完成した。

義昭の念願であった室町幕府は再興した。

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織田信長との対立

将軍義昭は旧システムの立て直しを図り、

人選を進めていった。

義昭は信長に上洛の恩賞を与えた。

尾張、美濃と和泉の一国を望んだ信長は

義昭より認められた。

義昭は他にも信長に地位と副将軍の推挙を

提案したが、信長は断り、弾正忠だけを

受け取った。

また幕府再興を念願とする義昭と、武力による

天下統一を狙っていた信長の思惑は違って

いたため、だんだん険悪の仲になっていった。

信長は殿中御掟の9か条と追加の5か条を

義昭に認めさせた。

その後、義昭は殿中御掟を遵守した形跡もなく、

二人の関係はこじれていった。

その後、義昭は上杉謙信、毛利輝元、本願寺顕如

武田信玄、六角義賢らに書状を出していた。

これが信長包囲網である。

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第一次信長包囲網

1570年(元亀元年)4月、信長は味方に

つかない朝倉義景を討伐するため越前国に

進軍し諸城を攻略していったが、突如

浅井長政の謀反を知り、撤退した。

6月に「姉川の戦い」が始まり、

織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が

激突した。

双方とも激しい戦いで、浅井・朝倉連合軍が

縦長になったため、家康がすかさず横から

攻めた、これにより浅井・朝倉連合軍は

総崩れとなった。

両軍とも失ったものが多く、姉川は戦死者で

血にそまったそうです。


8月、摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく

出陣したが、石山本願寺も参戦して敵になり

浅井・朝倉連合軍も迫ってきた。

織田軍は劣勢の中、重臣を失ったが

持ちこたえた。


9月、信長本隊は摂津国から近江国に帰還する。

浅井・朝倉連合軍は比叡山に立てこもって

抵抗した。


そんな時、伊勢国の門徒が一揆をおこし、

信長の実弟の織田信与を自害させた。

この包囲網で信長は窮地に落とされていく。


11月になると信長は足利義昭に和睦の

調停依頼をし、六角義賢・義治父子、浅井・

朝倉の和睦に成功して窮地を脱した。

第二次包囲網

1571年(元亀2年)2月、5万の兵を

率いた信長は伊勢長島に出陣したが攻め

あぐねて引き返した。


9月には比叡山延暦寺を焼き討ちにした。

1572年(元亀3年)3月、三好義継・

松永久秀の二人が共謀して信長に敵対した。

このころは織田軍と浅井・朝倉連合軍との

小競り合いが続いていて、織田軍有利に

進めていた。

しかし、信長と同盟を結んでいた甲斐の

武田軍が動き出し、三河に侵攻してきた。

11月には岩村城が武田に落ち、徳川軍が

敗退して二俣城も落ち、三方ヶ原の戦いで

織田・徳川軍が敗退してしまった。

また三河の野田城も攻略されてしまった。

信長としては絶体絶命であった。


武田の動向知った義昭は信長と決別して

敵対した。

信長は義昭に和睦を申し入れたが、拒まれた。

しかし天皇からの勅令で信長と和睦した。


この時、武田信玄の容体が悪く甲斐へ撤退した。

4月12日、甲斐に引き返す途中に死去した。

享年53歳


武田信玄が生きていたら、また世の中は

変わったのでしょう。


最大の敵がいなくなったことは信長にとって

事を優位に運べた。

これで織田信長の運気が上昇した。

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