加賀百万石 前田利家の生涯

加賀百万石は前田利家によって原型が

形成された。


その前田利家は傾奇者で、短気でもあった。

若年の頃は派手な拵えの槍を持って歩いた

から「又佐衛門の槍」と恐れられていた。

そして「槍の又左」の異名で称えられた。

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前田利家

そんな前田利家が生まれたのは

現在の名古屋市中川区荒子でした。

荒子城主 前田利治の四男として生まれ

幼名は犬千代でした。


1551年(天文20年)織田信長に小姓

として仕えた。


このころ守護代の清州織田家も揺れていた。

信長の父・織田信秀が勢力を伸ばし、主家の

清州織田家とも対立が続いていた。


父・信秀が死去すると、信長が家督を継いだ。

信秀に従っていた鳴海城主山口教継・教吉親子が

今川義元に寝返って赤塚の戦いになった。


このころ清州織田家の当主織田信友は、重臣に

実権を握られていた。

重臣坂井大膳は同輩と謀り、1952年

(天文21年)8月15日、信長方の松葉城と

深田城を襲撃した。


この知らせを聞いた信長は翌朝、那古野城を

出陣した。

そして清州織田家を一掃して勝利した。

この事で、両者の敵対関係は続いた。


この戦いが前田利家の初陣であった。

そして首級を挙げる功を当て、その後、元服して

前田又佐衛門利家と名乗った

その後は信長の不寝番として側近く使えるほどに

親しく接してもらえるようになった。


1556年(弘治2年)信長と弟・信勝による家督

争い、岩倉城主・織田信安の息子・織田信孝との

争いにも従軍して功績を挙げた。

このころの戦いから槍の又左衞門、槍の又左などの

異名をもって呼ばれていた。


そんな時、新設された信長の親衛隊的存在の

直属精鋭部隊の赤母衣衆筆頭に抜擢され、

多くの与力を添えられ100貫の加増を受けた。

前田利家出仕停止命令

1559年(永禄2年)、信長の寵愛を受けていた

拾阿弥を斬り殺してしまった。

これに怒った信長は、利家に出仕停止命令出し、

利家は浪人になってしまった。


その後1559年(永禄3年)、出仕停止中でも

桶狭間の戦いに参戦して、三つの首を挙げる活躍を

しても帰参は無かった。

桶狭間の戦い

翌年1561年(永禄4年)、斎藤氏への戦でも

無断で参戦して功績をあげ、二つの首級を持参して

信長の前に出た。

今回は戦功を認められ、300貫が加増され、無事

帰参ができた。


前田家の家督は兄・利久が継いでいたが、

病弱のため利家が家督を継いだ。


それからは信長の天下統一の達成のため、すべての

戦に参戦し、数々の戦績を残した。


1574年(天正2年)には柴田勝家の与力と

なり、北陸方面軍に一員となって越前一向一揆の

鎮圧に従事し、苛烈な弾圧に乗り出した。


小丸城から出土した瓦に刻まれた「前田又左衛門

どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、

釜茹でに処した」という記録からも凄いと思う。


越前一向一揆は平定されたが、佐々成政・不破光治

も加わり、「府中三人衆」呼ばれ、北陸地方の

平定に従事した。


また中国地方への戦にも参加しており、信長の

直参的役割は続いていた。


1581年(天正9年)、信長から能登一国を

与えられ、利家は初代藩主になり、七尾城を

廃城にして港に近い小丸山城を築城した。


1582年(天正10年)6月、本能寺の変で

信長が明智光秀に討たれた時、利家は勝家に

従い上杉景勝軍の越中宇魚津城を攻略中で

山崎の戦いに参加はできなかった。

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本能寺の変

信長死亡後、清州会議が開かれたが羽柴秀吉と

柴田勝家は対立をしていった。


利家は悩んだ、幼友達の秀吉と敵になるのか、

勝家を裏切るのか。


そんな時、勝家から不破勝光・金森長近と三人で

秀吉との和議の交渉に行くよう指示が出た。

この時、秀吉は三人に調略をしていたのでは

ないか。

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賤ケ岳の戦い

1583年(天正11年)4月の賤ケ岳の戦いでは

利家は5000人の兵を柴田軍として布陣したが、

参戦はしなかった。

秀吉の調略に乗ったのか、定かではないが。


秀吉に降伏をして北ノ庄城攻めの先鋒となった。

戦後は加賀国の2郡を加増され、本拠地を小丸山城

から加賀の金沢城に移した。


小牧・長久手の戦いでは、家康側に着いた

佐々成政が加賀・能登に進行してきたが、

利家は成政軍を撃破した。

これにより利家は小牧・長久手の戦いには

参戦できなかった。


1584年(天正12年)8月、秀吉が利家の

先導で10万人の大軍を率いて越中国に

攻め込むと佐々成政は降伏し、越中国の

3郡を加増して北陸の惣職の地位に上った。


九州征伐では8000人の兵で畿内の守備に

就いた。

秀吉は関白になり、利家に筑前守・左近衛権小将に

任官させた。

その後、参議に任じられ、秀吉の利家に対する

信頼は相当なものだった。

小田原征伐

小田原征伐では北国勢を指揮して上杉景勝・

真田正幸と共に上野国に入り、北条氏の

北端要所の松井田城を攻略、他の諸城も

次々攻略していった。

7月5日 ついに北条氏は降伏した。

この時の陸奥国の伊達政宗の事件は有名であった。

この時、正宗の尋問が利家であった。


1591年(天正19年)8月、秀吉より

朝鮮出兵の命が出された。

そして前線基地となる城を九州の備前国松浦郡

名護屋に築城させ、その名を名護屋城とした。


始めは秀吉自身も渡海する意思があり、利家・

家康により、説得され思いとどまった。


7月22日秀吉は母の大政所危篤を知り、

急遽大阪に戻った。

その間、利家と家康は秀吉に代わって諸将を

指揮し、政務を行っていた。

これが後の五大老の原型になった。


1598年慶長3年になると秀吉は、五大老・

五奉行の制度を作り利家を家康と同じ大老の

トップの座を与えて、家康のけん制も

兼ねていた。

五大老

そして秀吉は8月18日に、利家らに嫡子の

豊臣秀頼のことを繰り返し頼み、生涯を終えた。


しかし家康は秀吉の法度を破り伊達政宗・

蜂須賀家政・福島正則との婚姻政策を

無断で進めた。


これにより利家派と家康派が明らかになった。

家康も今、利家と争っても不利と悟り、和解した。


この時から利家の病状は悪くなり、家康が

病気見舞いに来た。

この時、利家は抜き身の太刀を布団の下に

忍ばせていた。

というエピソードがある。


その後大阪の自邸で病死した。

享年62歳であった。


利家の嫡男・前田利長は陰謀にはめられそうに

なった。

これは家康の策略で利長が家康を討伐するという

偽の情報を流して前田家をつぶそうとしたが、

母・芳春院が人質になり前田家を救った。

そして14年に渡る人質生活を過ごし、

利家の待つ加賀に戻った。

享年71歳。

まつ

芳春院は利家に経帷子を着させようとして言った。

「あなたは若い頃より度々の戦に出、多くの

人を殺めてきました。

後生が恐ろしいものです。

どうぞこの経帷子をお召しになってください」と

言い、利家は、「わしはこれまで幾多の戦に出て、

敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、

苦しめたことは無い。

だから地獄に落ちるはずが無い。

もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、

閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。

その経帷子はお前が後から被って来い」と言って

着るのを拒んだ。


まとめ

利家は信長に仕え、秀吉とは隣同士の付き合いも

あり、家族ぐるみで成長していった。

そして賤ケ岳の戦い後も、密かに友人関係は続いていた。

そんな中、秀吉は秀頼の後見人として利家に頼んだ。

しかし前田利家は遺言状には秀吉のことは書いていなかった。


あくまでも織田家に対する忠義のみを書いていた。

自分を育ててくれた織田信長に最大の敬意を示していた。

秀吉とは足軽時代からの竹馬の友かな。

 

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