奥羽の覇者! 独眼竜 伊達政宗 !

独眼竜政宗と呼ばれていた奥州の覇者は

伊達政宗である。

映画やテレビでも同じみだと思います。

その政宗の生涯を追ってみました。


1567年(永禄10年)9月5日

出羽国米沢城で伊達氏16代当主の

伊達輝宗の嫡男として生まれた。

幼名は梵天丸。

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幼少期の大病


幼少の頃、政宗は天然痘にかかり右目を

失った。


(天然痘とは紀元前より、伝染力が強く死に

至る疫病として恐れられていた。

また治癒しても顔面に跡が残り「美目定めの病」

と言われていた。)


政宗の場合は右目の失明が残ってしまった。

右目を失ってしまったため、母からはさほど

愛されなかった。

しかし父・輝宗は政宗の実力を見抜いていた。


1579年(天正7年)、政宗13歳の時、

三春城主・田村清顕の娘、愛姫を迎える。

田村家は征夷代将軍の坂上田村麻呂からの

名門でしたが芦名家や相馬家の圧力に負けまいと

必死でした。


そこで伊達家に助けてもらおうと、愛娘の愛姫を

伊達家に輿入れさせた。

当時の政略結婚である。

しかしいろいろ問題があり夫婦仲は悪かった。

その後政宗の思いから夫婦仲も良くなり、

4人の子をもうけた。

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戦国武将の仲間入り


1581年(天正9年)戦国大名の相馬氏との

合戦で初陣を飾った。

この合戦は1576年から始まり10年近く続いた。

ことの発端は曽祖父に当たる伊達稙宗の遺言から

始まった。


稙宗の娘を相馬義胤に嫁がせ、領土を分け与える

ことになっていたが、稙宗の嫡男・晴宗が家督を

継いだ事により、この話は反故になってしまい、

相馬氏も「話が違う」ということから戦闘が続いた。


1584年(天正12年)10月、父・輝宗の隠居

に伴い家督を相続し、伊達家17代当主になる。

これから周囲の大名に戦いを挑み、領地を広げて

行った。


1585年(天正13年)、父・輝宗は所領安堵の

礼をしに来ていた畠山義継に拉致された。

鷹狩の時、その事を知った政宗はすぐに追いかけ、

鉄砲で父・輝宗もろとも義継を殺害した。

鷹狩なのに何故鉄砲があったのか?

政宗の陰謀か?

ここで伊達政宗の合戦歴を見ると負けが少ない。

10勝1敗5引き分けであった。

政宗の合戦歴は多いとは言えないが、政宗自身が

指揮をとることが多く、引き分けの多さも

特徴です。

これは負けそうになっても引き分けに持っていく

知略が政宗にはあり、「不敗神話」をつくり上げて

いった。

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政宗の決断


その頃、豊臣秀吉が天下統一に向けて進んでいた。

秀吉最後の戦が関東で起ころうとしていた。

秀吉による北条の小田原城攻撃である。


政宗の元にも秀吉から「豊臣軍に参加せよ」という

命令が届いた。

政宗は迷いました。


北条とは父の時代から同盟関係にあったため、

小田原参陣は直前まで迷った。

一時は豊臣を相手に戦をする構想も練っていた。


しかし秀吉と対戦しても勝ち目はないと判断して

小田原に行くことを決断した。


しかし小田原への出発直前に、伊達家を弟に

継がせたいと言う母の思いから政宗毒殺を

実施したが、政宗は下剤を飲んで助かった。

政宗は混乱の原因となった弟を殺害して伊達家内の

争いを治めた。

そのため小田原への到着が遅れた。


この毒殺未遂事件はいろいろ諸説はあるが、義姫は

弟の小次郎を可愛がっていたことは間違いなく、

小次郎が家督を継いでほしいと願っていた。

また反正宗派一掃の狂言説もあるそうです。


1590年(天正18年)6月小田原に到着した。

秀吉は伊達に対して腹を立てていた。

しかし到着するなり政宗は、前田利家に「千利休殿

に茶の指導を受けたい」と申し入れた。

これを聞いた秀吉は「政宗も茶に興味があるのか」

といい、面会を許可した。


政宗大一番

政宗は面会の準備をした。

まげを下ろし、白装束を着て秀吉の前に現れた。

死を覚悟しての姿に秀吉はうたれ、思わず秀吉は

政宗を許した。


それから間もなくして五代続いた北条家は降伏し、

秀吉は日本統一を実現した。


1593年(文禄2年)文禄の役(朝鮮出兵)

に従軍した。


京都での行軍で伊達家の軍装が話題になり、

住民も歓声を上げた。

人々は「さすが伊達隊だ」と声を上げた。

このことが今でいう「伊達者」の始まりである。


秀吉の死後、家康は秀吉の遺言を破り、1599年

(慶長4年)、政宗の長女・五郎八姫と家康の

六男・松平忠輝を婚約させた。

ほかにもいろいろ婚約させ、味方を増やしていった。

このことは石田三成や、前田利家もあわてた。


関ケ原の戦いが始まると西軍の上杉家重臣直江兼続

率いる軍が東軍の最上氏の領内に入ってきた。

政宗も東軍に属しているから、すぐ援軍を送った。

そして東軍が勝つと西軍の直江兼続は米沢に逃げて

いった。


関ケ原の戦いのあと家康に許可を得て、慶長6年に

居城を仙台に移し、石高も62万石となった。


1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では

布陣したが和議が成立し、伊達軍は

外堀うめたての任に当たり、翌年の慶長20年

大坂夏の陣では、後藤基次らと戦い、壊滅させた。


伊達軍は兵を進めるが、真田信繁(幸村)との

合戦になると後退を余儀なくされた。


先鋒大将の水野勝成は真田隊の攻撃を再三進めるが

政宗はのらりくらり、これにより信繁は大阪城に

引き返した。


「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに

見えにし候」

(関東武者は100万あっても、男と呼べるものは

誰一人としていない)

伊達政宗の男気があらわれている。


世の中が落ちついてからは、国の開発に力を入れ

運河を整備し、最上川の整備開拓を進め、穀倉地帯

にしていった。

その結果、62万石が74万5千石相当に

石高がアップした。

1636年(寛永13年)死去。

享年70歳。

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