小早川秀秋の謀反 悲運のプリンス

小早川秀秋は関ヶ原の戦いで、西軍につきながら

東軍につき西軍を裏切った。

豊臣家からは相当な恩を受けていたのに裏切って、

世の中のバッシングを受けた。

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小早川秀秋の生い立ち

1582年(天正10年)、木下家定の五男として

近江国長浜に生まれる。


1585年(天正13年)に義理の叔父である

羽柴秀吉の養子になり、高台院に育てられた。


地位も上がり、関白・豊臣秀次に次ぐ継承権保持者

と見られていた。


1593年(文禄2年)、秀吉の嫡男・豊臣秀頼が

生まれると養子の話が持ち上がった。

秀吉の配下黒田孝高(黒田官兵衛)から小早川隆景に

「秀俊を毛利輝元の養子に貰い受けてはどうか」との

話が持ち掛けられた。


このことを聞いた隆景は、毛利秀元を毛利家の

後継ぎとして秀吉に紹介して、秀俊を小早川の養子に

もらい受けたいと申し出て、認められた。


1594年(文禄3年)、秀吉の命により秀俊は

小早川秀俊となった。

結果、小早川家も家格が上がった。


翌年6月には、不運にも秀次謀反のうわさが流れ、

秀次も切腹させられこの世を去った。

享年28歳。

秀吉も嫡男が生まれてからは考え方がかなり

変わった感じがする。


1597年(慶長2年)秀吉から発せられた

軍令により、秀俊は朝鮮半島に行くことになった。

この年の6月12日に小早川隆景は没した。

これを境に名乗りを秀秋と改名した。


朝鮮半島の戦では、秀秋の戦績の記録がないようです。

帰国後は蔚山城の戦いにおける秀秋の軽率な行動が

原因とされることがおおく、秀秋には越前北ノ庄

15万石の減封転封命令がくがった。

これにより秀秋家中は家臣を多く解雇することに

なり、優秀な家臣が離れていった。


1598年(慶長3年)8月秀吉が死去すると、

秀吉の遺言をもとに翌慶長4年2月5日付けで

徳川家康ら五大老連署の知行宛行状が発行され、

筑前・筑後に復領。所領高も59万石と大幅に

増加した。

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関ヶ原の戦い

1600年(慶長5年)秀秋は関ヶ原の戦いでは

西軍についた。

この時、石田三成や大谷吉継は秀秋の動きに不信を

抱いていた。

秀秋は15000人の軍勢を率いて、関ヶ原の

南西にある松尾山に陣を敷いていた伊藤盛正を

追い出してそこに布陣した。

この時点で秀秋は裏切りは決意したのであろう。

それとも以前から裏切っていたのだろうか?


戦闘が始まったのは午前8時頃であり、午前中は

西軍有利に進んだ。


秀秋は最終的には家康の催促に応じ、松尾山を

下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。

この時、家康から「さそい鉄砲」があったため

秀秋が動いたという説が定着しているが、

そのさそい鉄砲の説は作り話の可能性が高い。


この際、小早川勢で一手の大将を務めていた

松野重元は主君の離反に納得できなかった為、

無断で撤退している。


秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも

平塚為広・戸田勝成とともによく戦って小早川勢を

食い止めたが秀秋の離反から連鎖的に生じた

脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保らの

離反を受け、吉継・為広・勝成の諸将は討死した。


これにより大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、

三成は大坂城を目指し伊吹山中へ逃亡した。

なお、翌日以降に行われた三成の居城佐和山城攻め

などでも秀秋は出陣している。


秀秋は黒田長政により調略が行われていた。

秀秋も葛藤があっただろう。

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まとめ

理由はともあれ、合戦中に裏切りを行った秀秋に

対する当時の世評は芳しいものではなく、

豊臣家の養子として出世したにも関わらず裏切りに

及んだことが卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた。


また大谷吉継は「人面獣心(人間の顔をしているが、

心は動物)なり! 3年の間にたたりをなさん」

と叫んで切腹した。

その言葉通り、2年後に秀秋は病死した。

享年21歳。

秀秋は深酒がたたって肝臓を壊し寿命を縮めたという

説もあり、酒癖も悪かったそうです。

しかし、秀秋も世の中の情勢に流され悲運の

人生だったかも。


その後小早川家は改易された。

家臣たちは裏切りを攻められ仕官先が無いと

思われたが幕府が面倒を見た。

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