松永久秀の三悪事

戦国時代に極悪非道と呼ばれていた大悪人の松永久秀。

松永久秀は1508年(永正5年)生まれで、摂津国の土豪の出身、

出身地は他の説もあり、さだかではない。

1533年(天文2年)頃、細川氏の被官であった三好長慶に仕えた。

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久秀の出世

この関係から朝廷には通じるものがあり、かなり出世をして

長慶からも信頼を得、三好長慶の重臣になっていき、大和一国を

管理する位にあった。

畿内の覇権争いで、将軍地蔵山の戦い、久米田の戦い、教興寺の戦いなど

多くの戦いをして、畿内安定に努めた。

1559年(永禄2年)には美濃の斎藤義龍、尾張の織田信長、越後の

長尾景虎が相次いで上洛して義輝に謁見した。

テレビの「大河ドラマ」では朝倉義景の命で明智光秀が京に出向き、

久秀と合っている。

久秀はこれが縁で信長を知ったのだと思う。

1562(永禄5年)9月には長慶に逆らった伊勢貞孝・貞良父子を

討伐して、大和と山城の国境近くに多聞山城を築き、移住した。

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三好家の分裂

そして久秀は徐々に勢力をつけ膨れ上がっていったが、長慶が不運に

見舞われ、弟の十河一存、三好実休、嫡男・三好義興の相次ぐ死去などで

気を落とし、1564年(永禄7年)5月9日、またもや弟の安宅冬康の

死去して、三好家では久秀に並ぶ実力者は篠原長房のみとなった。

そして7月4日、長慶も衰えから亡くなり、三好義継が当主となった。

1565年(永禄8年)5月19日、室町幕府13代将軍足利義輝が、

三好義継、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)、

松永久通(松永久秀の嫡男)らの軍勢によって京都二条御所を襲撃され、

義輝も剣術は一流だったため自ら刃をとり、戦ったが討ち死にした。

その後、三好三人衆と松永久通は阿波国にいる足利義維・義親を

擁立するための準備を進めていた。

一方、松永久秀は将軍候補に挙げていた足利義昭を幽閉し、義輝の近臣

一色藤長・細川藤孝らの協力により義昭を脱出成功させ、六角義賢のもとで

かくまわれていたが、六角が三人衆と通じたため越前の朝倉義景に身を寄せた。

この頃から三好三人衆は三好家の実権を二分され松永久秀が邪魔になり、

久秀は孤立していく。

足利義栄を押す篠原長房と組み、三好家の当主の義継を味方に入れ、

久秀に義昭を逃がした理由をつけ、久秀討伐の計画を練っていた。

久秀は大和国内の平定で筒井順慶や興福寺を攻め、それらからも

反感をかっていた。

そこで三人衆は1566年(永禄9年)12月21日 順慶と興福寺を

味方に入れ大和に侵攻してきた。

そして次々に城を落とされ多聞山城も順慶により攻められ、何とか

持ちこたえていた。

1567年2月16日に三好義継が久秀を頼って逃げてきた。

これを機に勢力を盛り返し、順慶に奪われていた信貴山城を奪還した。

義継はある人に書簡を送った「三好三人衆の悪逆無道を鳴らし、

また久秀の三好家に対する忠誠心を賞し、これを見離せず鞍替えした」

これで久秀は義継と一緒に戦うことになった。

三人衆は4月18日に大和へ侵攻してきた。

お互いに攻め合いが続き、10月10日に久秀が動き出した。

三人衆の陣である東大寺を奇襲攻撃して成功させた、それにより

東大寺の大仏殿は焼失してしまいました。

この戦により大仏殿が焼失した理由は諸説あり、今も議論されている。

松永・三好連合軍は大和を回復させた。

しかし三人衆・順慶連合軍との小競り合いが相次ぎ、信貴山城の戦いで

信貴山城が三人衆の攻めで落城してしまいました。

またまた窮地になった久秀に、凄い味方が現れた。

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織田信長

織田軍は六角を観音寺城の戦いで破り、無事に足利義昭を

第15代将軍に擁立して念願の上洛を果たすことになる。

信長は畿内制圧に動き出した。

この時久秀は息子の松永久通、三好義継とともに拝謁し、

再び拝謁すると「吉光」と「九十九髪茄子」を差出し、従軍する事

になった。

信長は久秀に2万の援軍をつけてもらい再び大和に行き、

三人衆・順慶を畿内より駆逐することに成功した。

1570年(元亀元年)信長は三好義継・部下になった池田勝正

とともに朝倉討伐に出陣した。

しかし浅井長政の裏切りで信長は窮地に陥った。

この時久秀は近江国朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、

信長を助けた。

この頃から信長と義昭は考えの違いから徐々に離れ、

敵対していくことになる。

久秀の苦悩

久秀は信長の石山本願寺には参加しているが、「俺は将軍義昭の

幕臣であり、信長の部下ではない」と思うようになり徐々に

信長から離れていく。

1572年(元亀3年)ついに久秀は信長に敵対する意を表した。

翌年2月には槇島城の戦いが始まり、信長が勝利して将軍義昭は

追放された。

12月には三好義継も織田家臣の佐久間信盛と戦い戦死した。

多聞山城にいた久秀は織田軍に包囲され降伏した。

1574年(天正2年)1月に信長に謁見をして、信盛の与力として

石山本願寺戦に参加している。

しかし1577年(天正5年)本願寺攻めから勝手に離脱して、

信貴山城に立て籠もりを始め再び信長に対抗した。

しかし使者にも会おうとせず久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の

2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に

打ち壊すことにする」と返答した。

久秀の三大悪事

・三好家乗っ取り

これは三好一族の不幸が三年続いた

弟の十河一存、三好実休、嫡男・三好義興の相次ぐ死に久秀が

関与していたのでは?

・将軍足利義輝の襲撃

息子の久通と三好義継、三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて

上洛し、将軍を暗殺

この話も裏から久秀が糸を引いていたのでは?

・東大寺大仏殿の焼失

三好三人衆が東大寺に陣を構え、久秀と戦をしている時、久秀は

奇襲をかけ三好軍を破った時に大仏殿に火をつけた。

この話もいろいろ諸説はあり、三人衆の身内にキリスト教徒が

いて、火をつけた。

久秀が勝つために火をつけたかはさだかではない。

この悪行のイメージは江戸時代に常山奇談としていろいろ書かれ、

これをもとに小説や映画等を書いたと思われる。

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