実践仕様に仕上がった松本城

この城は北アルプス山々を借景に五層の天守が

そびえたち、澄み切った青い大空と相まって

黒漆と白漆喰のコントラストが絵画のように

映し出されている。

そして四季折々の美しさがいっぱいの

松本城です。

松本城の歴史

松本城の前身は深志城といい、戦国時代の

1504年に築城された。

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松本城の歴史

当時築城したのは信濃国守護の小笠原長時で、

林城の城主であり、その支城の一つが深志城

であった。


しかし武田信玄の信濃侵攻により1550年

(天文19年)7月に林城、深志城は落城し、

信濃国守護・小川原長時は追放された。

そして武田信玄は信濃国を領国化した。


1582年(天正10年)武田氏滅亡により

織田信長が木曽義昌に納めさせた。

しかしその年の6月に本能寺の変で信長が

討たれ、武田領を巡る天正壬午の乱がおこり

小笠原洞雪斎(小笠原長時の弟)が奪還し、

徳川家康の部下となった小笠原長時の三男・

小笠原貞慶が城主となり、松本城と改名した。


1590年(天正18年)、豊臣の天下になると

徳川家康は関東移封になり、松本城城主も

下総古川へ移動した。

代わりに石川数正が入城した。

石川数正と言えば徳川家康の片腕と言われた

男である。

しかし、ある時期を境に豊臣秀吉に仕えていた。


松本城は江戸の徳川家康を牽制するたの

徳川包囲網の一つの城として重要な位置に

あった。

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徳川家康包囲網の城

石川数正は豊臣秀吉に忠誠を誓うべく、絶対

落城しない強固な防御を持つ最大の城造りに

着手した。

この城は豊臣時代のように千鳥破風や唐破風を

多く取り入れ廻縁と高欄も付ける予定で、

豪華絢爛にするつもりが、冬季の気温のことや

強風のことを考え、周りを塞いでしまった

とのこと。

津山城、松江城も同様で寒さの激しいところは

廻縁や高欄は取り付けていない。


嫡男の石川康長が後を継いで天守、城郭、

城下町と整備した。

天守の構造は戦闘的で、鉄砲玉が貫通しない

厚い壁、無数の石落としと狭間など鉄砲に対する

防御も想定されている


だが大久保長安事件で石川康長が改易になり、

城主もいろいろ変わっていった。

江戸時代には松平直政(家康の孫)が1633年

(寛永10年)に入り、天守に月見櫓、辰巳附櫓

が増設され連結複合式の天守になり、総黒漆塗は

威厳を感じる松本城になった。

江戸時代に増設された月見櫓は将軍をお迎え

できるように朱色の廻縁を付け遊び心も

兼ね備える。

そして曲輪も強固の防御であった。

本丸を中心に置き、その西側に天守、東南部

には黒門、東北部には裏門が配置され、

西北には埋門があり、足駄塀が存在した

絵図がある。

この埋門は有事の時は塀を倒して出口にも

入り口にもなる。

本丸を囲むように二の丸を構え、その東面に

厳重な太鼓門桝形が構える。

本丸と二の丸を囲むように外堀があり、その

外側に三の丸があり武家屋敷群が

配置されている。

その三の丸も惣構えとなる水堀と土塁によって

囲まれ、三日月堀を持つ丸馬出が4か所

設置されている。

かなり強固な防御を持った曲輪である。

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天守見学

それでは太鼓門から入り黒門を抜けて本丸に

進み、天守の内部を見学しましょう。


太鼓門

二の門

一の門

太鼓門枡形は、文禄4年(1595年)頃に

築かれ、門台北石垣上に太鼓楼が置かれ、

時の合図、登城の合図、火急の合図などの時、

太鼓を叩いてみなに知らせる重要な役割を

果たしていました。

現在の門は、平成11年に復元されたものです。

太鼓門の石垣の中に大きな石があります。

重量は22.5トンあります。

この石を運ばせたのが城主の石川玄蕃頭康長

であり、石の上に乗って音頭をとったため

玄蕃石と呼ばれるようになった。

黒門

二の門

一の門

黒門枡形です。歴代藩主の家紋が並んでいます。

これは城主がいかに多く変わったかが

よくわかります。

1990年(平成2年) に黒門枡形の二の門

および袖塀が復元されました。


黒門は、松本城本丸へ入る正門にあたり、

重厚な感じで立派な建造物です。

櫓門と枡形から構成されています。

本丸防衛のための要の門でした。

一の門(櫓門)は昭和35年(1960年)に

復興し、二の門と袖堀は1989年(平成元)

12月1日に復元されました。

本丸跡を見ながらいよいよ松本城に入ります。

天守入り口

一階

武者走りより50センチ高くなっている母屋部分

格子と矢狭間

石落とし

中央部

一階から二階へ

二階

ここは資料展示場になっている

三階

二階から三階へ

三階柱群

三階は乾子天守の屋根がこの階の周囲を巡って

いるため窓は作れなく、暗闇の隠し階と

呼ばれた。

四階

御座所となっており城主が天守にはいった時、

ここで構える部屋とされている。

五階

東西に千鳥破風、南北に唐破風がとりつけられ、

武者窓から周囲を見渡せ、作戦会議にこの部屋を

使ったと思われる

六階

二十六夜神

江戸初期の元和4年(1618年)1月26日の夜に、

当時の城主「戸田氏」の家臣で川井八郎三郎清良

という侍が宿直をしておりました。

とそこへ、「八郎三郎 八郎三郎」と呼ばれて

いるような声がしました。

そちらを向くと白装束に緋の袴姿の女性が現れ、

「二十六日の夜、三石三斗三升三勺

(今の500kgほど)の米を炊いて祀れば必ずや

城は栄えよう」と告げ、川井八郎三郎清良に

綿の袋を渡しました。

翌日、家老を通じ城主にこの話をしたところ、

最上階の梁の上に祠をつくり綿の袋を御神体

としてまつり、毎月26日に三石三斗三升三勺の

米を供えるようになったということです。

享保12年(1727年)に本丸御殿で火災があり

天守への延焼をくい止めたのが二十六夜神だと

いう言い伝えがあるそうです。

今でも松本古城会の方々が二十六夜神例大祭を

行っている。

まとめ

いかかでしたか、散策をすればいろいろな

思い出ができると思います。

城下町の散策も面白いと思います。

また四季折々の松本城も必見ですね。

営業時間   8:30から17:00

定休日    年末(12月29日から31日)

入場料    大人    610円

       小・中学生 300円

団体割引あり

アクセス

電車     JR松本駅から徒歩約15分

車      松本ICから約15分

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